2024年9月8日 メッセージテーマ「不信仰とは」
「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
マルコの福音書6章3
マルコの福音書6章1-6節 № 28
ガリラヤ伝道を展開されているイエスは、ご自分の郷里であるナザレも伝道されていました。ただ、郷里の人々については「彼らの不信仰に驚かれた」(6)とあります。カペナウムで 救われたヤイロとその娘や、長血をわずらっていた女の人の信仰はどうかというと、決して 立派な信仰とは言い難いものがありました。しかしイエスはこの人たちに対して「不信仰」とは言わず、むしろ「あなたの信仰があなたを救った」と評価されていました。不信仰に陥ったのはイエスの郷里の人たちでした。イエスも「預言者が敬われないのは、自分の郷里…」(4)と 言われました。ナザレは無名の小さな村です。村人たちは互いによく知っています。「この人は大工ではないか。マリアの子で…」と彼らが言っているのは、「我々はこの人をよく知っている」ということを主張したいのです。ちなみに、「マリアの子」との発言は、他の人が知らないことも知っていることを強調した言い方です。イエスは聖霊によって身ごもって生まれた神の御子 です。正確にはヨセフとマリアの子ではありません。イエスをよく知っていると自負する彼らは、「聖霊による…」などと信じられるはずもなく、疑惑と憶測としてのイエスをよく知っているの です。だから不信仰なのか・・・いいえ、彼らはイエスの教えと奇蹟としてのみわざを認めて います(2)。彼らの問題点は、「この人」と呼ぶイエスを彼らの知り得る範囲の中で処理しようとしていることです。自分の知り得るこの人、自分の理解し得るこの人がどこから知恵を 得たのだろうか?ということです。私たちも聖書のメッセージを、彼らと同じように聞くことも あり得るかもしれません。ヤイロや長血をわずらっていた女の人はどうだったのでしょう? 5章を改めて読んでみると、頼りない信仰なのですが、少なくとも、彼らはイエスを自分の理解できるひとりの人間として見てはいません でした。
人間の罪と死、それがもたらす負に対して、人は打ち勝つことができません。そこから救うのがイエスキリストです。この方の権威と力であれば罪も死も滅ぼすことができるのです。 このイエスと、その救いを、自分の知り得る 範囲で理解することは不可能です。もし それを貫こうとするならイエスにつまずくほかありません。イエスはマリアの長男に過ぎないのか、それとも神の国の王なのか、一度、 自分のリミッターを解除してイエスを見つめてみませんか。