2024年11月10日 メッセージテーマ「果たしてそれは聖書か?~神のことばの本質を見極めよ~」
またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」
マルコ7章9
マルコの福音書7章1-13節
『神の国において人を真に生かすのは神のことばであり、その救いを与えるのはイエスキリストだけである』という真理を教えるために、聖書はゲネサレの地の人々(6:53-56)と、律法(聖書)を教える指導者たちとを対比しています。指導者たちがエルサレムからイエスのもとに来たのは、イエスを調査して誤りがあれば裁判にかけるためです。彼らには独自の聖書のルールがあります。ここでは食前に手を洗う儀式の教えが挙げられています。イエスの弟子たちがそれを守らないことを非難してきました。旧約聖書のレビ記にこの教えがあります(22:4)。しかし、これは祭司に対する規定です。指導者たちは一般の人たちに新たな規定と して定めたのです。それが「昔の人たちの言い伝え」と彼らが呼ぶものです。イエスはそのような彼らを「偽善者」と厳しく非難し、イザヤ書の預言が成就したと言われました。その内容は、 イスラエルの民の行う礼拝は習慣的な儀式に過ぎず、その心は神から徹底的に離れているというものです。当の本人たちは非常に熱心です。しかしどんなに熱心でも、それは人間の教えに基づくものなので無意味です。聖書に何かを加えると、その加えられたものが聖書を規定するようになります。私たちは、何が本質的な教えであり、何が付随的な言い伝えであるかを、しっかりと吟味する必要があります。
イエスは「あなたの父と母を敬え」という神の教えを、指導者たちが無にしていることを指摘されました。「神へのささげもの(コルバン)は、神のものだから、それを他に用いるべきでは ない」という彼らの言い伝えにより、親への扶養を禁止したのです。信仰的に正しい理屈が、むしろ自分の思いを正当化する手段となってしまっています。神に従うつもりでいながら、 人からの評価を求め、聖書のことばを語りながら自己主張したり、人を批判するなら偽善です。
果たしてそれは聖書(神のことば)か?自分の動機の部分を考えてみましょう。それが神のことばであるならば、その人を生かします。もしそうなら、永遠の救いにあずかり、或いは豊かな霊的祝福に与ります。ゲネサレの地の人たちがそうであったようにです。