2024年11月3日 メッセージテーマ「十字架につけられたキリスト」
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
Ⅰコリント 1章18節
Ⅰコリント1章18-25節
イエス・キリストの十字架は、歴史的に実際に起きた出来事として知られています。しかし、それは「処刑された人物」としてです。その後イエスの復活の証人となった弟子たちによって「十字架のことば」すなわち福音が宣べ伝えられていきますが、信じない人々には愚かに聞こえます。「処刑された人物が救い主なんて…」と言うのです。でも、神に造られながら神から離れ、罪の中にある私たち人間にとって、その罪から救われる唯一の道がイエス・キリストの十字架なのです。「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと(Ⅰコリント 15:3)」とあるとおりです。私たちの罪が赦されるためには、全く罪のない人が身代わりにならなければなりませんでした。全く罪のない人とは、神の御子、すなわち神が人となってこの世に来られたお方以外おられません。イエス・キリストは、私たちが赦されるために十字架について下さったのです。なぜ十字架でなければならなかったのでしょうか? それは、神にのろわれた者である罪人の身代わりになるためには、イエスも同じく「神にのろわれた者」となる必要があったからです。「木にかけられた者は神にのろわれた者(申命記 21:22)」とあるとおりです。イエス御自身に罪は全くありません。神の御子であり、神に祝されているお方が、罪人の救いのためにあえて
のろわれた者となって下さった。私たちの代わりにのろいをすべて引き受けて下さり、十字架にかかって下さった。これがキリストの十字架なのです。多くの人々が幸せになりたくて、あるいは利益を得るために教えを求めています。その欲求に応えるかのように、様々な教えがこの世には存在します。しかし、罪の赦し、真の救いに至る道はイエス・キリストを信じる以外にありません。イエスは「権力闘争に敗れて処刑された哀れな人物」ではありません。たとえ世の人々に愚かと誤解されようとも、信じる者を滅びから救い出すために、私が受けるべき十字架の罰を代わりに受けて下さったお方。それが神の御子イエス・キリストです。