2024年12月22日 メッセージテーマ「神の御子の誕生」
…ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
マタイ1章20節
マタイの福音書1章18-25節
聖書がイエス・キリストの誕生について、まず伝えていることは、聖霊によって誕生したということです。それは結婚したヨセフとマリアの間に生まれたのではないということであり、処女マリアから生まれたということです。当時のユダヤにおける婚姻制度は、①両家結婚に同意、②花嫁料を花婿父が支払う、③婚姻関係を公式に発表したあと、④一年間それぞれの両親のもとで生活しなければなりません。⑤一年後、晴れて夫婦の生活が始まります。聖霊による懐妊は、彼らが別々の生活をしているときに起こりました。聖書は、その起こり得ないことを伝えるために細心の注意を払っています。マリアがイエスの母であることを強調するために「母マリア」と言い、ヨセフのことをイエスとの関係が見えないように、父ヨセフとは言わず「夫のヨセフ」と伝えています。聖書はこの事態を知ったヨセフのことも正直に伝えています。彼はひそかに離縁することを考えました。ユダヤ社会では婚約中の不義(彼の中では現時点でそう取らざるを得ない)は石打ちの処刑です。ただ当時は殆ど行われず、ほとんどが法廷で公に離縁するか(花嫁料が戻ってくる)、数人の証言者のもとに内密に離縁するかの二択となっていました。いずれにしてもヨセフのもとに妻として戻る道はありません。二人に何の光も見えないときに、神は介入の手を伸ばされました。恐れずにマリアを妻として迎えよと、神は励まされました。その理由は聖霊による妊娠だからです。なぜ聖霊によって生まれてくる子でなければならないのでしょうか? それは生まれてくる子が、人を罪から救わなければならないからです。罪ある人間が人間を救うことはできません。であれば、罪のない神の御子でなければならないのです。
「罪」とは、「的をはずす」という意味があり、本来あるべき人の姿ではない状態のことを言います。憎しみ合い、傷つけ合う人の姿は本来の姿ではないのです。本来は互いに愛することのできる存在です。というのも、神が人に要求する教え、命令は「神を愛し、隣人を愛しなさい」というものです。これに応えられない状態が罪なのです。人は本来の姿を完全に失ったわけではないために、隣人を愛そうと努力します。でも、できない…。この罪の報酬が死であると聖書は言います(ローマ6:23)。人の死の根本理由が罪だということです。この絶望の暗闇から救い出すために、イエスキリストは誕生したのです。救う方法は、ご自分が私たちの罪の身代わりとなり、十字架で死なれたこと、葬られて、三日目に
肉体をもってよみがえられたこと、このことを信じる人は救われるのです。