2024年12月29日 メッセージテーマ「信仰の目で見上げて」
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」…
Ⅱ列王記6章17節
マルコの福音書8章22-26節 №39
目の見えない人の癒やしはイザヤ書35章5,6節の預言の成就であって、キリストによる救いが実現したことを伝えています。この癒しのわざは、7章後半に出てきた「耳が聞こえず口のきけない人」の癒やしと共通しています。いずれも、その人を周囲に人がいないところに連れ出されています(7:33、8:23)。宗教アピール的な視点からいうと、多くの人に奇蹟を見せた方が、信仰に入る人が起こされるのではないでしょうか?イエスはむしろ、そうなさらず、一対一になっています。イエスがなさろうとしている第一のことは、この人を罪から救うことです。他の人でも、不特定多数の人でもない、この人です。イエスはこの人との出会いを大切にされています。聖書が伝える「救い」とは、「関係の回復」と言い換えることができます。人には様々な苦しみがありますが、そのほとんどが人間関係の苦しみです。また、耐え難い苦しみも人とのかかわりが中心です。その根拠は、人が「神を/人を愛しなさい」という神の要求(命令)に応えられない状態(それを罪という)から来ています。罪ある人には健全な愛はありません。そうであれば人とのかかわりは不完全です。
目の見えない人は、イエスとの個人的なかかわりの中で「何が見えますか」と尋ねられました。その時彼は、「見上げて(直訳)」から、「人が見えます」と答えました。見えない世界しか知らなかったこの人が、見えることを前提に見上げるのは簡単なことではありません。イエスのことばを信じて見上げるしかないわけです。このことは私たちにも適用できます。目の前に見る現実は厳然とそこにあります。これを否定できる人はいません。しかし見えるものは、その現実だけなのでしょうか。今見えている現実よりも大事な現実があります。神の現実です。神がおられるなら必ずあります。私たちを罪から救うためのご計画は、聖書の示すとおりに事実あります。それに基づいて神は物事を動かしておられるのですから。見えないと現実ではないのでしょうか?閉ざされている信仰の目は、イエスとの出会いによって開かれます。目の見えない人がイエスからの個人的なかかわり、ことばかけをいただいたように、今の私たちは聖書のことばから、イエスとの出会いをいただけます。まずは、その出会いを願うこと、或いは見えるべきものが見えるようになるのを願う
ことから始めてみてはいかがでしょうか。