2025年3月2日 メッセージテーマ「世のただ中での信仰告白」
さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった...。
マルコ8:27
マルコの福音書8章27-30節 No41
「イエス」は「神は救う」という意味の名前です。「キリスト」は「油注がれた者」という職名(タ
イトル)です。旧約において神は、王、大祭司、預言者にのみ、任職の油を注ぐことを定められ
ました。実はイエスは、神と人との間を執り成す大祭司です。この職は罪の赦しのためのいけ
にえをささげる役がありました。イエスはご自身がそのいけにえとなられた唯一の大祭司です。
また、イエスは真の神のことばを取り次ぐ預言者であり、ユダヤ人の王です。いや最終的に王
の王、主の主として神の国を治められます。それがキリストと呼ばれる所以です。
現在マルコの福音書を順に説教し、8章30節まで来ました。ここまでが前半です。その主題
は「イエスとはだれか?」です。数々の奇蹟をイエスが行われたのは、その問いの答えの一つ
です。病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせ、パンを増やされました。これはいのち
の部分、霊的部分、自然の部分、物質的部分と、すべての領域において神としての権威と力を
顕示されたのです。それはキリストであることの証拠です。そして、この方でなければ、人を罪
から救うことはできません。「あなたはわたしをだれだと言いますか」との問いかけに対して、
「キリストです」と告白することは、この方が神であること、その神としての権威と力をお持ちで
あることを信じることなのです。
この方を信じるとは、イエス・キリストを自分の人生の主とすることです。弟子たちがすぐに
従ったのは、イエスを主としたからです(マルコ 1:16-20)。人生の中でだれを主とするかとい
うことは重要なことです。「いや、だれも主になどしていない」と言いたいところですが、私たち
は国家に従わなければなりませんね(たとえ正しいと思えなくても)。イエスの弟子たちもそう
でした。彼らが信仰告白した「ピリポ・カイサリア」は「カイサル」の町です。カイサルとはローマ
皇帝の称号です。この国に従えと、神として祀られる皇帝の力を顕示しているのがこの町です。
イエスはあえて、その場所で誰を主とするの
かを問われたのです。「イエスはキリスト」との
告白に生きることは戦いです。もしイエスをキ
リストではなく、人生に良い影響を与えた存在
とだけとらえるなら、戦いは生じません。なぜ
なら、自分が良いと思われる教えだけ取り上
げればよいからです。しかし、この方を主とす
るなら、戦いはあっても、あなたを自由にしま
す(ヨハネ 8:32)。罪に束縛されない自由です。