2025年3月16日 メッセージテーマ「十字架(しもべ)の主 ⑵」
だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
マルコ8:34
マルコの福音書8章34-38節 №43
イエスは、キリストの職務内容(受難)を理解できなかったペテロはじめ弟
子たちと、わざわざ群衆を呼び寄せて、「だれでもわたしに従って来たければ
…」と真の弟子となる条件を教えました。第一に「自分を捨てる」ことです。
自己中心的な自分の歩みを捨てることを教えています。私たちには自分の人生
があります。家族、仕事、学校、交友、趣味、所有物…それらを自分の意志や
計画で支配することを捨てるのです。つまり自分の人生をイエスに支配してい
ただくのです。第二に、「自分の十字架を負う」ことです。自己中心の自分に
死を宣告するのです。クロスする十字架の縦木は処刑場に立てられています。
死刑囚は横木を抱えて街中を見せしめとして歩いて目的地に向かうのです。そ
れほどに自己中心はやっかいで、ひどいものなのです。ローマ社会では、市民
権を持つ者にこの刑を課すことを許しませんでした。壮絶だからです。しかし
、イエスを信じた御国の民は全く逆です。「日々十字架を負」うのです(ルカ
9:23)。「日々」というのは、イエスに従うには一瞬一瞬の決断が必要で、日
々の連続なのです。「自分は他の人に勝っている、劣っている」と自己中心の
自分も日々の連続です。イエスをいさめたペテロは、いわば自己中心的な善意
を見せたのです。自己中心の問題は、優越感や劣等感よりも、イエスを自分か
ら遠くに追いやることです。この罪のためにイエスは十字架で死なれるのに、
そんなことが起こるはずもないなどと言うものなら、それはサタン的です。
自分のいのちを救うならそれを失い、イエスのためにいのちを失う者はそれ
を救う(35)との教えは、イエスに従うか、自分を選ぶか、道は二つしかない
ということです。自分を選ぶことは、自己中心の道を進むことです。そこに救
いはありません。しかし、イエスのためにいのちを失う者は、一度イエスとと
もに罪に死ぬのですが、それはいのちを救うことになります。それはイエスの
受難には「三日後によみがえらなければならない」という必然があるからです
。復活のイエスは栄光と力を帯びて聖
なる御使いたちとともに、地上に戻っ
て来られるのです。ですから、イエス
のご意向どおりに従う者は救われるの
です。私たちはイエスとイエスのこと
ばを恥じることなく、自分の十字架を
負って、イエスに従っていきたいので
す。