2025年3月9日 メッセージテーマ「十字架(しもべ)の主 (1)」

それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始めら れた。 マルコ8:31 マルコの福音書8章31-33節 No42  イエスがキリストであることを明らかにすることが、マルコの福音書前半の中心的な内容でした。それが一度明らかになると、次にどのようにして、キリストが職務を全うしていくのかということが明らかにされていきます。イエスはご自分の職務の重要な「受難」について話されました。「多くの苦しみ」とは、イエスがエルサレムで不当に逮捕され、いわゆる弾劾裁判を受けることを指します。その主導者が長老たち、祭司長たち、律法学者たちと呼ばれるユダヤの最高議会のメンバーたちです。イエスに罪がないので、その裁判は無意味です。ところが彼らはイエスをキリストと認めていないので、イエスが大祭司、預言者、王であることを明らかにすることこそ、神への冒涜罪だと主張したのです。彼らこそイエスがキリストであることを教えなければならない立場にいる人たちです。彼らはイエスを捨てたのです。「殺され」とは、単なる肉体の死のことではなく、人々の罪を赦すために、神の怒りを一身に引き受けられた贖いの死のことです。イエスはこれまでに、受難について触れなかったわけではなく、暗示的には教えておられました(マルコ2:20)。また、旧約聖書においても、キリストの受難の預言は数多くあります(詩篇22:1、18、69:21、イザヤ53章等)。しかし、ユダヤ指導者はじめ、弟子たちにも、その認識はありません。聖霊が働かれていないからです。聖書を正しく捉えるには、認識していく順序が重要です。まず初めにイエスがキリストであることを信じることです。その次にキリストがどのような働きをされたのか(十字架、復活)を受け止めることができます。ペテロは、イエスが示したキリストの働きを認識できなかったどころか、「そんなことがあなたに起こるはずがありません」(マタイ16:22)といさめ始めたのです。イエスはこのペテロを「下がれ。サタン」と痛烈に叱責されました。それはペテロが「神のことを思わないで、人のことを思っている」からです。「神のこと」とは神の事柄のことで、それは神がお立てになったご計画のことです。神の国を造られるべく、その民となる人間を罪から救うことです。「人のこと」とは、 神の計画を切り捨てたすべての人間的事柄のことです。サタンが神の計画を阻もうとしていることがわかります。そもそも神の事柄は、覆い隠されていた奥義です。それを明らかにするのは神であり、信じることができるように導くのも神です。イエスをキリストと信じて救われることは奇蹟以外の何ものでもありません。

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