2025年7月27日 メッセージテーマ「決して見捨てられない」
わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、
もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。
へブル8:12
ヨハネの福音書21章15-17節
イエス・キリストは私たちの罪のために十字架につけられ、死なれた後三日目によみがえら
れました。今日の聖書箇所は、よみがえられたイエスが弟子たちの前に姿を現す場面です。こ
の時弟子たちは、エルサレムからガリラヤ湖に行って漁をしていました。そこへイエスが現れて
弟子たちを大漁へと導き、食事を共にした後でペテロに語りかけました。ペテロとしては心に
引っかかるものがあったでしょう。彼は、イエスに予告されていたにもかかわらず、イエスが捕
縛された後に三度、イエスのことを「知らない」と否定してしまったのです(ルカ22:31-34)。
イエスはペテロに語りかけました。「あなたは、わたしを愛していますか。」この問いかけが三
度続きました。三度「知らない」と否定したペテロに対して、三度「愛します」と言うチャンスを与
えたわけです。この時イエスはペテロを責めていません。彼が三度「知らない」と言ったことに
ついて全く触れていないのです。これが罪の赦しです。
主イエスは、救われた者の罪を赦し、そのことについて忘れて下さいます(へブル 8:2)。と
いっても記憶がなくなったわけではありません。覚えておられるはずです。でも、そのことにつ
いて思い起こさないのです。イエス・キリストにある罪の赦しは完全です。過去の罪(今まで犯
してきた罪の数々)、現在の罪(無自覚の罪も含め、今犯している罪)、未来の罪(この先に犯
してしまう罪)、これらのすべてを赦して下さっています。「イエスの御前に立ったら、犯した罪
の数々を責められるのではないですか?」いいえ、大丈夫です。「この先何か大きな罪を犯し
たら、その時点で救いは取り消されるのではないですか?」いいえ、決してそんなことはありま
せん。「やがてイエス・キリストの御前に立つその時には、完全に聖められるから、その時には
責められることなく安心して御前に立つことができますよね?」そうではありません。主イエス
を信じて救われているなら、私たちは今、責められる心配なく、安心してキリストの御前に出ることができます。安心して祈ることができますし、安心して礼拝することができるのです。
なぜこう言い切れるのでしょうか?神が愛
しているのは、私たちのdoing(行い)ではなく、
私たちの being(存在)だからです。私たちが
何か良い行いをすれば愛してもらえるのでは
ありません。神は私たちの存在そのものを愛
して下さるのです。ハレルヤ!