2025年7月6日 メッセージテーマ「人にはできないが神にはできる」

イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。 マルコ10:27 マルコの福音書10章23-27節 No54 「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」とイエスに尋ねた青年は、イ エスのもとから悲しみながら立ち去って行きました。神の国に入るために、律法を守るように 指示された彼は、守っていると自負していました。しかし、律法の本質である隣人を愛すること ができないことが暴かれ、結局彼は、律法を何一つ守ることができなかったのです。その事を 受けて、イエスは弟子たちに「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」と 言われました。それに対して弟子たちが驚いたのは、当時のユダヤ人の理解に、「富は神に認 められたしるし」というのがあったからです。先祖のアブラハムが裕福だったからかもしれませ ん。しかし、それはイエスの教えではありません。「富を持つ者が...」とあえて発言しているイエ スの意図をよく考えましょう。 「富」は「満ちている」という元のことばから来ています。財産をたくさん持っていることにより、 満足感や幸福感に満ちる状況を伝えたいことばが「富」です。人が生きる上で必要な物は所 有しなければなりません。しかし人は必要以上のものを所有したいのです。聖書はそれを「肉 の欲」と言います。満足感を得たいゆえです。聖書の言う「富」は、この世の生活に満足感をも たらすものです。際限のないものと言えるでしょう。その結果、神の国(救い)への求めが薄ま ります。神の国が遠のくのです。神の国、或いは救いに対してあまり関心を示すことがないと したら、それは日々満ち足らせようとする自分がいるからかもしれません。 イエスは、金持ちが神の国に入ることの難しさを、「らくだが針の穴を通るほうが易しい」と ユーモラスに教えました。この比ゆは文字通りに受け止めるべきです。つまり、イエスは富を持 つ者が神の国に入る可能性はゼロであると言いたいのです。弟子たちは、自分たちが当然の ように抱いていた感覚を打ち砕かれたかのように驚きました。 これらを教えたイエスの心の動きをよく見ま しょう。どこに向かっていますか?「それは人に はできないこと」を認めさせたいのです。その 上で、「...しかし、神は違います。神にはどんな ことでもできるのです」を信じてもらいたいの です。絶対に不可能な事柄を、神は可能にさ れることをです。イエスは、人にはできないこと については、富める青年の実例で説明されま した。しかし、神にはできることについては、一 言も説明されていません。ただ、黙ってエルサ レム(十字架)に向かわれています。イエスの 十字架と復活がない限り、「神にはできる」は 成り立たないのです。

このブログの人気の投稿

2024年9月15日 週報より報告