2025年8月3日 メッセージテーマ「第三回受難告知」
異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。
マルコ10:34
マルコの福音書10章32-34節 №56
イエスを取り巻く群衆の中には、教えを乞う人、奇蹟(癒し、悪霊追い出し)の恵みに喜ぶ人、
その恵みを願う人など、熱気に包まれていたと思われます。弟子たちの思いも群衆寄りです。
彼らの願いも、「イスラエルのために国を再興」(使徒1:6)して欲しいというものです。確かにイ
エスは最終的にエルサレムを首都とした千年王国を築かれるので、彼らの考えは間違いでは
ありません。しかし、その計画を進めるプロセスについては、イエスと彼らとの間に隔たりがあ
ります。イエスはその隔たりを認識させるために、三回目の受難告知をされたのです。これま
での告知とは違い、「死刑、嘲り、唾をかけ、むちで打ち…」と具体的です。ご自分に起ころうと
していることをこれほど詳しく知っているのは、神の御子だからというよりも、預言のことばに
従って承知しておられたからです(イザヤ53:5、詩篇22:1,18)。イエスのうちに恐れが見られ
ないのは、みことばに従っているからです。みことばに従わない道は、自分の力で進む道です。
そこに恐れが生じてきます(ヨシュア1:7-9)。イエスは弟子たちに「わたしたちはエルサレムに
上って行きます」と言われました。同行者ということではありません。イエス一人がエルサレム
において贖いのわざを完成されるだけではなく、弟子たちもまたイエスの苦難を共有するゆえ
に、そう言われたのです。
イエスは死刑になることを、みことばに従って受け止めておられます。待ち受けているのは
十字架刑です。イエスを亡き者にしたいユダヤ人たちは、自分たちのユダヤ法で死刑にするこ
とは許されていません。ローマ支配下にあるからです。彼らはローマ法に委ねて死刑を求刑し
ました。しかし、ローマ政府はイエスに罪を認めませんでした。ですから、むち打ち刑にしてか
ら釈放する考えでした。ところがユダヤ人たちの「十字架につけろ」という狂気の沙汰に負けて
十字架刑に。人間的に言えば、イエスが十字架刑になる確率は高くありません。私たちは神を
畏れなければならないでしょう。人為的な思い
よりもはるか昔に、神はイエスを十字架につけ
ることを定めておられたのです。それは人間を
罪から救うためです。私たちの邪悪な罪を、イ
エスが一切担うことで、イエスを信じた者の罪
の重荷が解かれます。 そのためのイエスの
苦難なので、神の計画において十字架は必須
です。