2025年11月16日 メッセージテーマ「神の眼差し」
それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
マルコ12:41
マルコの福音書12章38-44節 №68
イエスとユダヤ指導者たちとの緊張関係はピークに向かっています。イエスとの論争で勝ち目のない彼らは一時的に沈黙します。イエスを陥れる機会を待つ彼らに対して、イエスは挑戦的な行動に出られます。神殿内で律法学者たちを名指しで批判されたのです。仕返しではありません。悔い改めさせる機会を含む、父のご計画に従った行為です。イエスは十字架に向かって自ら進み続けています(マルコ10:32)。
イエスの批判は人々に注意を促す形で語られました。聖書を研究し、人々に教える律法学者の願うところは、人々に尊敬されることです。そのための長い衣、広場でのあいさつ、会堂や宴席での上座への着座です。彼らが神のことばそのものを献身的に追求した上で、尊敬されるべきですが、いつしか目的が変わってしまいました。私たちも聖書のことばが体系的に分かってきたときに、その喜びを他の人と分かち合うか、優越感に浸るか、よく注意していなければなりません。律法学者たちは、聖書に従い、率先してやもめたち(弱い立場の人)を守らなければならない立場にいます(申命記10:17-19)。しかし彼らは、見かけは敬虔を装い、私利私欲のために彼女たちの財産を奪っていました。終末の困難な時代の様子として、パウロは「自分だけを愛し、金銭を愛し…」と預言しています(Ⅱテモテ3:2)。要するに、神を愛することができなくなるということです。私たちが救いに与り、神を愛し、隣人を愛する者に変えられつつあることが、どんなにか恵みであるかを覚えなければいけません。
その後、イエスは神殿内で行われている献金の様子をご覧になりました。大金を投げ入れる金持ちたちが多くいる中で、200円にも満たない銅貨2枚を投げ入れた貧しいやもめが、だれよりも多くを投げ入れたと評価されました。「生きる手立てのすべてを投げ入れた」ことをイエスは確認されたのです。これは生活設計が出来ていないということではありません。ささげずにはおれないほどに、神を愛しているから可能な行為です。彼女は明日のことも、その方に任せているという信頼のもとに献金しているのです。
律法学者たちと貧しいやもめが実に対照的に描かれています。ささげること、奉仕すること、言動のすべての動機がどこから来ているのかよく吟味しましょう。その動機は人か?自分自身か?決まり(義務)か?それとも神か?