2025年11月23日 メッセージテーマ「真実を見る目」
すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」
マルコ13:2
マルコの福音書13章1-2節 №69
神殿内での教えを終えて、イエスと弟子たちは神殿を出て行かれました。弟子の一人が振り返ったのか、建物の素晴らしさに目を見張り、その感動をイエスに伝えました。このやりとりの前に、イエスは次のように言っていました。「見よ。おまえたちの家(神殿)は、荒れ果てたまま見捨てられる」(マタイ23:38) 弟子たちはこれを聞いた上で、あの感動を伝えていたのです。ことばの意味は分かっていたはずです。でも、実際に神殿が破壊されるなどということを信じられないがために、こんな素晴らしい建物が壊れるはずはないというニュアンスを込めて言ったのかもしれません。
イエスは、弟子に対して「この大きな建物を見ているのですか」と問い尋ねました。原文のとおりだと、「…見ない(見えない)のですか」となります。「見ようとしないのですか」ということです。なぜ見ようとしないのでしょう?「常識を超えているから…自分の知識や経験から受け入れられないから…」 イエスの発言には聖書的根拠があります。神殿崩壊が預言されている聖書のことばに基づいて発言しているのです(エレミヤ26:6、ミカ3:12)。紀元前586年にバビロン帝国によってエルサレムが陥落しました。この時はソロモン王が建てた第一神殿が破壊されました。弟子たちが今見ている神殿は、ペルシャのキュロス王の命令により、バビロンから帰還したユダヤ人たちが建てた第二神殿で、西暦70年にローマ帝国によって破壊されました。神によって語られたことは必ず実現します。歴史において神殿が二度に亘って壊されたことは、世の終わりの予型です。素晴らしいと言わしめる偉大な神殿でしたが、それは予型に過ぎません。私たちが見るべきは、建っている神殿でも、壊された神殿でもありません。そこにあらわされている世の終わりを見なければならないのです。イエスが「建物を見ない(見ようとしない)のですか」と問われた意味が改めてよくわかります。
聖書は、「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く」ので「見えないものに目を留め」ると言います(Ⅱコリント4:18)。また、目に見える望みは望みではないと言い、見ていないものを望んでいるとも言います(ローマ8:24)そして、見えないものを見る唯一の手立てが「信仰」であると言います(ヘブル11:1) 終末は見えるもの、すなわち不完全なものが終わるときです。それは完全なものがもたらされるためです。私たちはそこを見続けます。
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