彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。 マルコ6章 54節 マルコの福音書6章53-56節 №33 ゲネサレの地の出来事がわずか4節分に記されています。一見、イエスの宣教の展開を伝える場面(参 1:39)ではないかとも思われます。しかし、前後の出来事をつなげてみると、見えてくるものがあります。前の出来事とはパンの奇蹟のことです。群衆をあわれんだイエスはみことばを教えました。しかしパンの奇蹟を受け止めて群衆が求めたものは、イエスとその教えではなく、パンそのものでした。だからイエスを王にしようとしたのでした。後の出来事とは、「神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」(7:8)とイエスから非難された宗教指導者たちの話です。それらに挟まれたかたちでゲネサレの地の人々の信仰が教えられているのです。その文脈からわかることは、神の国において人々を真に生かすのは神のことばであるということ、また、それを与えるのは神の御子であるイエスしかいないということです。ゲネサレの地の人々は、すぐにイエスだと気がつきました。それは「はっきりわかる」という意味合いです。同じ意味合いのことばがエレミヤ書31章34節にあります。「…わたしを知るようになる」ということばです。つまり姿かたちがわかるということではなく、イエスのご本質がわかるということです。パンの奇蹟にあずかった人たちとは明らかに違う知り方です。彼らはイエスだと気づくと、とにかく「病人を」イエスのところに連れて来ました。並行記事のマタイ14章35節には「病人をみな」とあり、その意味合いは「悪いものを持つものはみな」となります。つまりからだの疾患としての問題だけではなく、あらゆる問題をイエスのところに持って行ったのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)とイエスが招かれているとおりです。どんな人でも、どんな問題でも、イエス(とその教え)を求めて来るなら解決してくださるのです。人々は迷信的な意味合い、或いは病気の汚れからの控えめな態度としての意味合いか、いずれにしても「せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した」のです(マタイ 14:36)。聖書とは違う価値観、世界観をまだ持っていたけれども、イエスその方を...