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10月, 2024の投稿を表示しています

2024年10月30日 祈祷会メッセージ動画

雅歌2章1~7節 テーマ「 愛がそうしたいと思う時までは 」

2024年10月27日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書6:53〜56 メッセージテーマ「 イエスに気づいた人々 」

2024年10月27日 メッセージテーマ「イエスに気づいた人々」

彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。 マルコ6章 54節 マルコの福音書6章53-56節 №33 ゲネサレの地の出来事がわずか4節分に記されています。一見、イエスの宣教の展開を伝える場面(参 1:39)ではないかとも思われます。しかし、前後の出来事をつなげてみると、見えてくるものがあります。前の出来事とはパンの奇蹟のことです。群衆をあわれんだイエスはみことばを教えました。しかしパンの奇蹟を受け止めて群衆が求めたものは、イエスとその教えではなく、パンそのものでした。だからイエスを王にしようとしたのでした。後の出来事とは、「神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」(7:8)とイエスから非難された宗教指導者たちの話です。それらに挟まれたかたちでゲネサレの地の人々の信仰が教えられているのです。その文脈からわかることは、神の国において人々を真に生かすのは神のことばであるということ、また、それを与えるのは神の御子であるイエスしかいないということです。ゲネサレの地の人々は、すぐにイエスだと気がつきました。それは「はっきりわかる」という意味合いです。同じ意味合いのことばがエレミヤ書31章34節にあります。「…わたしを知るようになる」ということばです。つまり姿かたちがわかるということではなく、イエスのご本質がわかるということです。パンの奇蹟にあずかった人たちとは明らかに違う知り方です。彼らはイエスだと気づくと、とにかく「病人を」イエスのところに連れて来ました。並行記事のマタイ14章35節には「病人をみな」とあり、その意味合いは「悪いものを持つものはみな」となります。つまりからだの疾患としての問題だけではなく、あらゆる問題をイエスのところに持って行ったのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)とイエスが招かれているとおりです。どんな人でも、どんな問題でも、イエス(とその教え)を求めて来るなら解決してくださるのです。人々は迷信的な意味合い、或いは病気の汚れからの控えめな態度としての意味合いか、いずれにしても「せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した」のです(マタイ 14:36)。聖書とは違う価値観、世界観をまだ持っていたけれども、イエスその方を...

2024年10月23日 祈祷会メッセージ動画

雅歌1章2~17節 テーマ「 ソロモンとシェラムの女の出会い 」

2024年10月20日 メッセージテーマ「不信仰という逆嵐」

みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 マルコ6章50節 マルコの福音書6章45-52節 №32 「それからすぐ」(45)とあるように、パンを増やした奇蹟とつながっていることを意識して、今回のイエスの湖上の奇蹟を理解していきましょう。「弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ」たイエスの意図は、パンで満たされた群衆から引き離すところにあります。並行記事のヨハネの福音書には、五千人以上の人々がパンで満たされた直後に、人々がイエスを王にするために連れて行こうとしています。「神の御子」からかけ離れた「政治家イエス」という具合に、彼らは自分たちの欲求を満たしてくれる人を求めています。弟子たちがその中に引き込まれる危険があったために、強制的に引き離しました。イエスは私たちを守るために、無理やりなお取り扱いをされるかもしれません。しかし、その間イエスは私たちのために執り成してくださいます(ローマ8:34)。弟子たちの舟はガリラヤ湖特有の嵐に見舞われ、長時間漕ぎあぐねました。嵐は既に経験済みで、その時弟子たちは風と湖を叱って凪にされたイエスを、「いったいこの方はどなたなのだろうか」と、彼らの中に大きなクエスチョンが残りました。嵐、或いは嵐のような人生の問題で困ること以上に恐ろしいのは、イエスを知らないことです。自然を支配されるイエスは、波打つ湖面を弟子たちのいる方へ歩き始めました。弟子たちがイエスを確認できる距離まで近づいたときに、イエスは彼らのそばを通り過ぎようとされました。いじわるではなく、イエスのご本質を知るチャンスを提供されたのでしょう。ところが、彼らには幽霊としか見えませんでした。彼らが取り乱した時点で、イエスは助けました。そのとき驚くべきことばをイエスは発しています。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない(50) 幽霊ではないわたしだ。しっかりしなさい!もう恐れることはないとは言っていません。「わたしだ」は神としての啓示のことばです。旧約時代に神がモーセにご自身の名をお示しになったときに「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14)と告げられました。神であられる方が共にいることを知る点でしっかりしなければなりません。そのイエスのご本質を知るなら...

2024年10月20日 午後礼拝メッセージ動画

黙示録17章 テーマ「 大淫婦バビロンへのさばき 」

2024年10月20日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書6:45〜52 テーマ「 不信仰という嵐 」

2024年10月16日 祈り会メッセージ動画

雅歌1:1 テーマ「 雅歌は何を歌ったものか? 」

2024年10月13日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書6:30〜44 テーマ「 神の恵みによる宣教 」

2024年10月13日 メッセージテーマ(神の恵みによる宣教)

するとイエスは彼らに言われた。「さあ、 あなたがただけで、寂しいところへ行って、 しばらく休みなさい。」出入りする人が 多くて、食事をとる時間さえなかったからで ある。 マルコ6章31節 マルコの福音書6章30-44節 十二人の弟子たちは宣教に遣わされ、人々に教え、悪霊を追い出し、病人を癒しました (12,13)。その彼らに対してイエスは休むように指示しました(31)。食事をしてからだを休め なければなりません。もう一つ休む目的があります。それは「寂しいところ」で休むことです。 原語では「荒野」を指していて、人のいないところです。マルコ1章で休む間もなく働かれて いたイエスの姿があります。大変祝福された働きです(1:21-34)。そのときイエスは「…朝早く、 まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」(1:35)という模範 を残しておられます。からだの休息とともに、神と向き合う時間が必要であることを教えて います。順調(祝福)のときよりも、苦しいときのほうが祈るのではないでしょうか?祈るべき です。ただ、ここでイエスは順調なときこそ、一度働きの手を休めて神と向き合うことの重要性 を教えています。順調で祝福されているときに、祈る必要はないとさえ思うことがあるならば、 祈りの意味を取り違えていると言わなければなりません。 この後、イエスは奇蹟を行います。しかし、その前にイエスは遅くなって家に戻ることの できない大勢の人たちに、弟子たちだけで養うように不可能な課題を突き付けます。その 目的は、福音の働きの力がどこから来るのかを弟子たちに教えるためです。五千人以上の 人たちがいるところで、弟子たちが集めることができた食べ物は5つのパンです。彼らの力を あらわすかのようです。しかし、イエスがそれを用いるならば、豊かな実りを生むのです。これ はイエスに遣わされた弟子たちの働きにも同じことが言えるのです。彼らの中に語るべき何か があるのではない、悪霊に打ち勝つ力も、病人を癒す力もないのです。彼らの持っているもの を人々に与えたのではありません。彼らを遣わしたのはイエスであり、悪霊を追い出す権威を 授けたのもイエスであり、人を罪から救うのも イエスなのです。十二人が宣教の働きから 帰って来て、まず報告すべきは、イエスへの 感謝であるべきです。有頂天になっ...

2024年10月9日 祈祷会メッセージ動画

伝道者の書12章 メッセージテーマ「 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ 」

2024年10月6日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの黙示録16章 テーマ「 真実で正しい、最後の裁き 」

2024年10月6日 メッセージ動画

マルコの福音書6:14〜29 メッセージテーマ「 福音の行方 」

2024年10月6日 メッセージテーマ「福音の行方」

こうして十二人は出て行って、人々が 悔い改めるように宣べ伝え、 マルコ6章12節 マルコの福音書6章14-29節 №30  イエスに遣わされた十二人の弟子によって、イエスの名が知れ渡りました。彼らが宣べ 伝えているものは、「…神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)とイエスが語られた福音です。福音、それはイエス・キリストが宣べ伝えられているということです。それを聞いた人々は、イエスを「よみがえりのヨハネの力が働いている」とか「旧約の偉大な預言者エリヤだ」とか「ただの預言者だ」とか、自分の都合でイエスをとらえました。さて、この福音はガリラヤ地方を支配するヘロデ王にも届きました。彼はイエスを自分の都合よくとらえるというよりも、恐れを抱いて受け止めました。かつてヘロデ自身が首をはねたヨハネがよみがえったのだと、イエスをとらえたのです。  このヘロデを通して教えられることは、権威あるイエスのことばが確かに宣べ伝えられているということです。なぜヘロデは、福音を聞いたときに自分が殺したヨハネがよみがえったとすぐに結論づけたのでしょうか? その説明のために、マルコは過去にヘロデがヨハネを殺害した出来事を記しています(17-29節)。ヘロデは律法が禁じている近親者(自分の兄弟)との結婚のことを(レビ記20:21)ヨハネから律法違反であると指摘され続けました。妻ヘロディアがヨハネを恨み、殺したいと思いながらもできずに、ヨハネはおよそ1年の間投獄されていました。殺害できなかった理由が重要です。ヘロデがヨハネを「正しい聖なる人だと知っていた」 からです(20節)。ですからヘロデはかえってヨハネを保護し、「その教え」に当惑しつつも 喜んで耳を傾けていたのです。ヨハネが語った教えとは神のことばです。彼はヨハネに責め られながらも、神のことばを認めつつあったのです。彼はヨハネが語ったことばと十二人が 語ったことばとに、神のことばの連続性を見たのです。十二人が宣べ伝えたときにイエスは 同行されていません。しかし権威ある神の ことばとして相手に届いているのです。聞く耳を持たない者にも自分の家族にも神のことばは届きます。届くことと、それを拒むこととは 別の問題です。ヘロデは最終的に拒みました。権威ある神のことばを拒んではいけません。

2024年10月2日祈り会メッセージ動画

伝道者の書11:1~10 テーマ「 あなたのパンを水の上に投げよ 」