そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。 マルコ7章34節 マルコの福音書7章31-37節 耳が聞こえず口のきけない人に対するイエスの癒やし方には、これまでにないユニークさがあります。彼の障がいによって、誰に、どのように癒していただいているかということが分かるように行っています。癒しの行為よりも癒す方への信頼が大事です。その中で「深く息をする」行為は耳が聞こえない彼には伝わりません。このことばは「うめく」という元の意味があります(ローマ 8:23)。罪と死の力に支配されている現実の中で、うめきながら救いを待ち望んでいる様子をローマ 8章 23節では表現しています。そのうめきを持っているのがこの人です。イエスは代わりにうめき声をあげて、父なる神にとりなしておられるのです。救われている私たちも、からだの贖いが未完成のためにうめいています。ですから、イエスは御霊とともにとりなしてくださっているのです(ローマ8:26、34)。聖書は「耳が聞こえない…」ことを、からだの障がいのことだけで語っていません。それは罪の力に捕えられていることによる苦しみを象徴的に表しているのです(イザヤ 35:5,6)。救いに与っている人たちにも、罪によって耳が塞がれる危険があります。私たちを真に生かすいのちのことばとして聞くことができなければ塞がれているでしょう。神のことばは、罪の弱さを持つ私たちの愚かさを矯正します。ひん曲がった心があれば、まっすぐにするわけですが、それを嫌がること、自分に都合よく聞きたいのであれば、耳が塞がれていることは明らかです。耳が塞がれているならば、福音のことばを話す口も塞がれているでしょう。イエスが「天を見上げて」癒そうとしているように、罪の束縛からの解放は天から来ます。すなわち、自力での解放は不可能だということです。更には解放されたいうめきをイエスが代わりにうめいてとりなしてくださるから可能となります。そして、「エパタ(開け)」と、解放を宣言してくださることで、それが現実のものとなるのです。罪の束縛から解放される預言は、イザヤ書35章5,6節にあります。イエスがこの人を癒したことで成就させました。ただその預言は二重になっていって、これから先に成就するものもあります。それは「大路」を通り「シオンに入」る事で成就します(イザ...