平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。 Iテサロニケ5章23節 Iテサロニケ5章23-28節 この手紙の結びで、パウロの願いが込められています。クリスチャンたちが神によって、完全に聖なるものとしてくださるようにとの願いです。「平和の神」がそれをしてくださいます。神の平和は争いが一切なくなり、豊かな繁栄がもたらされるものです(イザヤ 2:4)。その実現はキリストが再臨されたときに実現します。聖なるものとされる完全さは、私たちの「霊、たましい、からだのすべて」に及ぶ全人格的なものです。人には霊的部分があるから、祈り心があり、死後のことを考えます。だから人は宗教を造り出したのです。本来この霊はまことの神と交わるためのものです。また、人のたましいは知性、感情、意志といった心の部分です。この心に伴うものとして、人にはからだ(肉体)があるのです。心も肉体も不安定であり、衰えるものです。それらが完全に聖なるものとされるのです。人はイエスを罪からの救い主と信じて救われるときに、立場上聖なるものとされます。ただ、その状態は罪の弱さに翻弄されます。次に、救われた人は神から聖なるものとしての立場を頂いたので、段階的に聖なるものとされていきます。罪から離れようとし、信仰が成長していきますが、罪のない完全な状態に達することはありません。イエスのようになっていくプロセスがこの段階です。最終的に完全に聖なるものとされるのですが、それはイエスの再臨のときです。そのとき「キリストに似た者」となります(Iヨハネ3:2,3)。イエスに罪はなく、死に勝利されました。永遠のお方であり、完全な愛に満ちたお方です。私たちもそうなります。イエスは神です。そこは同じになることはありません。「キリストに似た者」とはそういうことです。今の自分を見て、イエスに似るとは思えない、むしろ後退するのではと考える人もいるでしょう。聖書の約束に立ちましょう。「キリストにこの望みを置いている者はみな、...自分を清くします」(Iヨハネ 3:3)。重要なのは聖なるものとなるためのやる気や努力ではなく、再臨のイエスに望みを置くかどうかです。私たちはどこまでも不...