「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたし を遣わされた方を受け入れるのです。」 マルコ9:37 マルコの福音書9章30-37節 No47 弟子たちが論じ合っていたことは「だれが一番偉いか」です。イエスはご自分が殺されると いう受難を再度告げた流れの中で論じているのですから、配慮が無さ過ぎではないでしょう か。彼らは受難告知を二回聞いても理解できない状況ですから、やむを得ないとも思えます。 しかし彼らは、イエスに何を議論しているか尋ねられたときに黙っていたので、うしろめたさが あったということでしょう。ご存じの上で、あえて尋ねたイエスは、「先頭に立ちたいと思う者は、 皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」と教えられました。これは、誰よりも身を低く、控え めに振舞う一般論としての謙遜を教えたのではありません。弟子たちが競っていた偉さは、能 力や身分、生活の豊かさではありません。不理解であっても彼らはイエスから「...自分を捨て、 自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(8:34)と教えられていました。誰が一番自 分を捨てているか?つまり、謙遜さにおいて競っていたのです。教会においては、イエスにあ る奉仕の精神で活動しますから、弟子たちと同じところに陥りがちです。競うために、奉仕を誇 り、奉仕していない人を批判してしまいます。そういうこと自体を止めなさいとイエスは教えて おられるのではないでしょうか。 「一人の子ども」を真ん中に立たせ、腕に抱きながらイエスは教えの真意を明らかにされま す。偉くなりたければ、子どもを受け入れなさいと。ユダヤ社会において、子どもは社会から除 外されていました。だからパンの奇蹟のときにも、食べた人の人数を数えたときに「男が五千 人」(6:44)と書かれているのです。ここでイエスが教えているのは、ひとりの人間として認めら ない存在を受け入れよということです。「いや、子どもは好きですから、ウェルカムです」それは 当然です。イエスが言われたのは、迎え入れたくない、一緒に歩きたくない人を受け入れよと いうことなのです。重要なのは「イエスの名の ゆえに」受け入れることです。それはイエスが 殺され、三日後によみがえる、み...