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7月, 2025の投稿を表示しています

2025年7月30日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書39章 テーマ「かえってその心を高ぶらせ」 動画は こちら

2025年7月27日 礼拝メッセージ動画

ヨハネの福音書21章15~17節 テーマ「決して見捨てられない」 動画は こちら

2025年7月27日 メッセージテーマ「決して見捨てられない」

わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、 もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。 へブル8:12 ヨハネの福音書21章15-17節 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架につけられ、死なれた後三日目によみがえら れました。今日の聖書箇所は、よみがえられたイエスが弟子たちの前に姿を現す場面です。こ の時弟子たちは、エルサレムからガリラヤ湖に行って漁をしていました。そこへイエスが現れて 弟子たちを大漁へと導き、食事を共にした後でペテロに語りかけました。ペテロとしては心に 引っかかるものがあったでしょう。彼は、イエスに予告されていたにもかかわらず、イエスが捕 縛された後に三度、イエスのことを「知らない」と否定してしまったのです(ルカ22:31-34)。 イエスはペテロに語りかけました。「あなたは、わたしを愛していますか。」この問いかけが三 度続きました。三度「知らない」と否定したペテロに対して、三度「愛します」と言うチャンスを与 えたわけです。この時イエスはペテロを責めていません。彼が三度「知らない」と言ったことに ついて全く触れていないのです。これが罪の赦しです。 主イエスは、救われた者の罪を赦し、そのことについて忘れて下さいます(へブル 8:2)。と いっても記憶がなくなったわけではありません。覚えておられるはずです。でも、そのことにつ いて思い起こさないのです。イエス・キリストにある罪の赦しは完全です。過去の罪(今まで犯 してきた罪の数々)、現在の罪(無自覚の罪も含め、今犯している罪)、未来の罪(この先に犯 してしまう罪)、これらのすべてを赦して下さっています。「イエスの御前に立ったら、犯した罪 の数々を責められるのではないですか?」いいえ、大丈夫です。「この先何か大きな罪を犯し たら、その時点で救いは取り消されるのではないですか?」いいえ、決してそんなことはありま せん。「やがてイエス・キリストの御前に立つその時には、完全に聖められるから、その時には 責められることなく安心して御前に立つことができますよね?」そうではありません。主イエス を信じて救われているなら、私たちは今、責められる心配なく、安心してキリストの御前に出ることができます。安心して祈ることができますし、安心して礼拝することができるのです。 なぜこう言い切れるのでしょうか?神が愛 ...

2025年7月23日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書38章 テーマ「死の宣告と祈りの答え」 動画は こちら

2025年7月20日 修養会午後の部 メッセージ動画

テモテへの手紙第2 3章 テーマ「これからの聖書の読み方~良い働きを行うために学ぼう~」 動画は こちら

2025年7月20日 修養会午前の部 メッセージ動画

テモテへの手紙第二1章3~13節 テーマ「私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」 動画は こちら

2025年7月20日 メッセージテーマ これからの聖書の読み方 「私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」

神は私たちを救い、また、聖なる招きをも って召してくださいましたが、それは私たち の働きによるのではなく、ご自分の計画と恵 みによるものでした…。 Ⅱテモテ1:9 テモテへの手紙第二 1章3-13節 信仰箇条の学び、聖書修養会の目的は、私たちの信じる聖書を大切に受け取るためです。 「大切に」とは、聖書を正しく、原著者のお考えのとおりに受け取ることを含みます。通常の礼 拝時に用意している「礼拝ワーク」も、キリストのお考え(御心)を考えることを目的としていま す。 ユダ王国のヨシヤ王の時代に、「主の律法の書(旧約聖書)を見つけた」(Ⅱ歴代誌34:14) という歴史的事件がありました。ヨシヤ王の前の治世(およそ60年)には、神のことばがないが しろにされていました。ヨシヤ王が律法のことばを聞いたとき、国民の霊的状態があまりにも 教えと違ったので、自分の衣を引き裂くほど嘆きました。王はただちに、国のすべての人々に、 神のことばを読み聞かせました。王が生きている間は、すべての者を神に仕えさせて、その道 から外れる者を出しませんでした(34:14-33)。 私たちが行おうとしていることは、まさにヨシア王に倣う霊的改革です。私たちに聖書が与 えられていても、それを間違って理解していたら、原著者である神のお考えに背いていること になります。神には定められた救いの計画があります。その計画の中心にはイエス・キリストが おられます。神の計画と目的を共有し続けることが大切です。それが聖書に書かれているの です。 パウロは、「神のご計画のすべて」(使徒20:27)を常に追求しながら歩んでいました。「私は、 すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして追求し ているのです・・・」(ピリピ3:12)神のことばをないがしろにすることなく歩むためには、「追求」 が必要です。神のご計画のすべてが書かれている聖書を「もうわかった」と言える日は来ませ ん。ですから、パウロのように、それを追い求め続ける人は幸いです。 私たちは神のことばを追い求めようとスタ 説教 ートを切りました。これはクリスチャン・スキル を上げるものではありません。神の国に向か うためです。そのためのギアを一段上げました。 「主の書物を調べて読め」(イザヤ34:16) この霊的...

2025年7月16日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書35章 テーマ「千年王国預言」 動画は こちら

2025年7月13日 メッセージテーマ「従う者への報い」

マルコの福音書10章28-31節 No55 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉 妹、母、子ども、畑を百倍受け、来るべき世 で永遠のいのちを受けます。 マルコ10:30 富める青年は持ち物全部を売り払うことも、イエスに従うこともできませんでした。弟子たち はどうでしょう。「すべてを捨てて」とペテロが言うとおり、職も、家も、家族も捨ててイエスに従 いました。不安になった弟子たちは、「...私たちは何をいただけるでしょうか」(マタイ 19:27)と 利己的ではありますが、イエスに尋ねないではいられなかったようです。イエスはそのような 彼らに神の国とその素晴らしさを教えます。 実際に弟子たちは漁師としての網も舟も家族も置いて、イエスについて行きました。それは 「わたし(イエス)のため」「福音のため」の犠牲です。イエスのため...イエスご自身がなさろうと していることは、神の国を造ることです。新たに創造する天と地と、「聖なる都、新しいエルサレ ム」をそこに置かれます(黙示録 21:2)。そこは救われた者の住まいです(ヨハネ 14:2)。神の 国を造ることは、イエスの野望ではありません。国王である神のもとに、そこにふさわしい民と して、私たちを罪から救い、イエスに似る者として完全な者に造り変えてくださるのです。その ために十字架と復活というイエスの贖いのわざがあります。そのイエスのための犠牲が家族 を捨てるということです。エペソ人への手紙では、「一つに集められる」(1:10)、「教会」「キリス トのからだ」(1:23)、「神の家族」(2:19)とことばを言い換えています。これは、目に見えるもの ではなく、キリストをかしらとした全世界の真の信者たちの普遍的な教会のことです。イエスが 再臨されるときには、その教会が携挙され、最終的に聖なる都に導き入れられるのです。現存 している普遍教会における神の家族数は百倍どころではありません。この聖書理解があるこ とで、イエスのため、福音のための犠牲を理解することができます。 もう一つの報いは、来るべき世において受ける永遠のいのちです。これは救われたすべて の人に賜物として与えられるものです(ローマ 6:23)。ここで言っているのは永遠のいのちを 味わう度合いのことです。それはイエスからの 褒章の形で差が出ます。パウロやペテロは殉...

2025年7月13日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書 10章28~31節 テーマ「従う者への報い」 動画は こちら

2025年7月9日 祈祷会メッセージ

イザヤ書34章 テーマ「主の書物を調べて読め」 動画は こちら

2025年7月6日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書10章23~27節 テーマ「人にはできないが神にはできる」 動画は こちら

2025年7月6日 メッセージテーマ「人にはできないが神にはできる」

イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。 マルコ10:27 マルコの福音書10章23-27節 No54 「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」とイエスに尋ねた青年は、イ エスのもとから悲しみながら立ち去って行きました。神の国に入るために、律法を守るように 指示された彼は、守っていると自負していました。しかし、律法の本質である隣人を愛すること ができないことが暴かれ、結局彼は、律法を何一つ守ることができなかったのです。その事を 受けて、イエスは弟子たちに「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」と 言われました。それに対して弟子たちが驚いたのは、当時のユダヤ人の理解に、「富は神に認 められたしるし」というのがあったからです。先祖のアブラハムが裕福だったからかもしれませ ん。しかし、それはイエスの教えではありません。「富を持つ者が...」とあえて発言しているイエ スの意図をよく考えましょう。 「富」は「満ちている」という元のことばから来ています。財産をたくさん持っていることにより、 満足感や幸福感に満ちる状況を伝えたいことばが「富」です。人が生きる上で必要な物は所 有しなければなりません。しかし人は必要以上のものを所有したいのです。聖書はそれを「肉 の欲」と言います。満足感を得たいゆえです。聖書の言う「富」は、この世の生活に満足感をも たらすものです。際限のないものと言えるでしょう。その結果、神の国(救い)への求めが薄ま ります。神の国が遠のくのです。神の国、或いは救いに対してあまり関心を示すことがないと したら、それは日々満ち足らせようとする自分がいるからかもしれません。 イエスは、金持ちが神の国に入ることの難しさを、「らくだが針の穴を通るほうが易しい」と ユーモラスに教えました。この比ゆは文字通りに受け止めるべきです。つまり、イエスは富を持 つ者が神の国に入る可能性はゼロであると言いたいのです。弟子たちは、自分たちが当然の ように抱いていた感覚を打ち砕かれたかのように驚きました。 これらを教えたイエスの心の動きをよく見ま しょう。どこに向かっていますか?「それは人に はできないこと」を認めさせたいのです。その 上で、「...しかし、神は違...

2025年7月2日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書33章 テーマ「今、主は立ち上がる」 動画は こちら