わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、 もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。 へブル8:12 ヨハネの福音書21章15-17節 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架につけられ、死なれた後三日目によみがえら れました。今日の聖書箇所は、よみがえられたイエスが弟子たちの前に姿を現す場面です。こ の時弟子たちは、エルサレムからガリラヤ湖に行って漁をしていました。そこへイエスが現れて 弟子たちを大漁へと導き、食事を共にした後でペテロに語りかけました。ペテロとしては心に 引っかかるものがあったでしょう。彼は、イエスに予告されていたにもかかわらず、イエスが捕 縛された後に三度、イエスのことを「知らない」と否定してしまったのです(ルカ22:31-34)。 イエスはペテロに語りかけました。「あなたは、わたしを愛していますか。」この問いかけが三 度続きました。三度「知らない」と否定したペテロに対して、三度「愛します」と言うチャンスを与 えたわけです。この時イエスはペテロを責めていません。彼が三度「知らない」と言ったことに ついて全く触れていないのです。これが罪の赦しです。 主イエスは、救われた者の罪を赦し、そのことについて忘れて下さいます(へブル 8:2)。と いっても記憶がなくなったわけではありません。覚えておられるはずです。でも、そのことにつ いて思い起こさないのです。イエス・キリストにある罪の赦しは完全です。過去の罪(今まで犯 してきた罪の数々)、現在の罪(無自覚の罪も含め、今犯している罪)、未来の罪(この先に犯 してしまう罪)、これらのすべてを赦して下さっています。「イエスの御前に立ったら、犯した罪 の数々を責められるのではないですか?」いいえ、大丈夫です。「この先何か大きな罪を犯し たら、その時点で救いは取り消されるのではないですか?」いいえ、決してそんなことはありま せん。「やがてイエス・キリストの御前に立つその時には、完全に聖められるから、その時には 責められることなく安心して御前に立つことができますよね?」そうではありません。主イエス を信じて救われているなら、私たちは今、責められる心配なく、安心してキリストの御前に出ることができます。安心して祈ることができますし、安心して礼拝することができるのです。 なぜこう言い切れるのでしょうか?神が愛 ...