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11月, 2024の投稿を表示しています

2024年12月1日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの黙示録19章1~10節 テーマ「 天における婚礼 」

2024年12月1日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書7章24〜30節 テーマ「 あわれみと恵み 」

2024年12月1日 メッセージテーマ「あわれみと恵み」

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 ローマ5章8節 マルコの福音書7章24-30節  イエスに助けを求めた女性はフェニキア人(カナン人)です。イスラエルとは敵対関係にあった民族であるにもかかわらず、イスラエル人であるイエスに娘を救ってほしいと願うの です。並行記事のマタイ福音書には「私をあわれんでください」と叫び続けて、弟子たちに制止されるほどです。娘のために手を尽くしてきたのでしょう。家族で抱えた苦しみを拭うことができません。彼女はすぐにイエスのことを聞き、ひれ伏して救いを求めたのです。切実な願いに対してイエスは「私が与える救いは、まずイスラエル人に与えなければなりません。その救いを取り上げて、異邦人であるあなたに与えるわけにはいきません」と否定するかのようです。  確かに神の救いの計画は、まずイスラエル人です。そのために彼らは選ばれ、救いの計画を結び、神のことばである律法が委ねられたのです。それに対して、異邦人はイスラエルの民からは除外、救いの契約外、望みも神もない者たちでした(エペソ2:12)。イスラエル人は与えられた特権故に高ぶり、キリストとその救いを拒みました。そのことで異邦人に救いが及ぶようになったのです。すべて神のご計画です。ただ異邦人の救いの時が、この時まだ来ていなかったのです。まず私たちが知らなければならないことは、そもそも救いを受ける権利はないということです。イスラエル人も異邦人も神に対して故意に罪を犯したのですから。彼女は、自分が救われようがない存在であること、神に何かを要求できる立場にないことを承知で、救いのおこぼれだけでも頂きたいと、あわれみを乞うたのです。そうです。何の権利もない私たちはただ神のご好意にすがるしかないのです。そのような人をイエスはお救いになります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき...」(上記聖句)つまり、罪ゆえに救いを受ける権利を持っていないとき、キリストは、その罪をご自分が担われて身代わりの死を遂げられたのです。 これを恵みと言います。受けるに値しない人が受けることができるのを恵みと言い、あわれみと表裏一体です。神はあなたを救おうとされています。

2024年11月27日 祈祷会メッセージ動画

雅歌6章1~13節 テーマ「 旗を掲げた軍勢のように恐ろしい 」

2024年11月24日 礼拝メッセージ動画

ヨハネの福音書16章33節 テーマ「 キリストの福音 」

2024年11月24日 メッセージテーマ「キリストの福音」

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」 ヨハネ 16章33節より 「福音(良い知らせ)」とは、古代ギリシアの軍隊で使われていた言葉で「戦いに勝利した」と いう知らせのことです。紀元前 490 年、マラトンの戦いに勝ったギリシア軍の兵士が、勝利を 知らせるためにマラトンからアテネまで走った出来事は有名ですね。では、キリストの福音とは 何に勝った知らせでしょうか。イエス・キリストご自身が「わたしはすでに世に勝ちました」と 私たちに知らせて下さっています。世とは、神に敵対する者すなわちサタンに支配された世界 のことです。つまり、キリストの福音はサタンとの戦いに勝利したという良い知らせなのです。 この良い知らせは、最後の晩餐の時、つまりイエスが十字架につく前日に語られました。 イエスの十字架は、世の人々の目から見れば処刑です。しかし、イエスの十字架は敗北では なく勝利です。なぜなら、イエスは十字架につかれて死なれた後、三日目によみがえられた からです。キリストの福音とは、十字架での死、葬り、そして復活です(Iコリント 15:3-5)。 復活したからこそ勝利したのです。死とサタンに勝利されたお方。それがイエス・キリストです。 私たちもこの勝利を自分のものとすることができます。イエスを神の御子と信じることによって 私たちも死とサタンに勝利できるのです(Iヨハネ 5:4-5)。 福音を信じるにはどうすれば良いのでしょうか。使徒パウロは「もしあなたの口でイエスを 主と告白し、 あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは 救われるからです(ローマ 10:9)」と言っています。イエスは死から復活されました。そして、 今も生きておられます。 この世にはさまざまな宗教がありますが、それらを教えた人々は世を去ります。世を去った 人々は何もできません。でもイエスは、今なお 生きて働いておられます。復活の主イエスは 十二弟子に約束した通り、信じる者たちに 助け主なる聖霊をお与え下さり(ヨハネ 14:16-17)、神の御声を聞くことができるよう にして下さっています。そして、信じる者たちを 励まし、導いて下さるのです。

2024年11月20日 祈祷会メッセージ動画

雅歌5章2~16節 テーマ「 結婚生活のすれ違い 」

2024年11月17日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの黙示録18章 テーマ「 大淫婦バビロンの崩壊 」

2024年11月17日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書7章14~23節 メッセージテーマ「 人の心の中のもの 」

2024年11月17日 メッセージテーマ「人の心の中のもの」

これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。 マルコ7章23節 マルコの福音書7章14-23 No35  洗っていない手でパンを食べることは、昔の人たちの言い伝えに背くことだと非難したのはユダヤの指導者たちです。「昔の人たちの言い伝え」は聖書なのかを前回考えました。その聖書があってはじめて、何が人を汚し、何が汚さないかのかということがわかります。それを教えるイエスは、こう言いました。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。」(14)これはすなわち、聖書です。「聖書正典」は「定規、規範」を元の意味とすることばです。定規が定規でなくなったら正しくはかることができなくなります。ですから、私たちは物事を聖書から正しく知る必要があるのです。  イエスは、食物について「人を汚すことのできるものは何もありません」とお答えになりました。すべての食物はきよいということであり、旧約時代の終わりを告げることを仰ったのです。そしてユダヤの指導者たちの教えを完全に否定したことになります。その上で、人の心の中から出て来るものが人を汚すと教えました。人の心の中から出て来る悪い考えの一つに「ねたみ」があります。悪い目で相手を見ることがねたみです。ユダヤの指導者たちがイエスを執拗に非難するのは、教義の違いからではありません。彼らのねたみから発しているものです。そのねたみと表裏一体のものが「高慢」です。彼らは自分たちの誤りを認めることができません。なぜなら、自分を正しいとする高慢さが支配しているからです。イエスは結局、指導者たちが教える昔の言い伝えそのものが人を汚していると革命的な発言をされたことになります。「人を汚す」は、テキスト中に5回も繰り返されています。元の意味は「神が忌み嫌うもの」或いは「神は拒絶される」です。なぜ拒絶されるのかは一目瞭然です。人のことばだからです。神のことばではないからです!「わたしの言うことを聞いて、悟りなさい」とのイエスの命令に従ったのは、弟子たちとゲネサレの地の人々でした。特に弟子たちは、「このたとえについて尋ねた」(17)とあります。私たちの心は鈍いので、尋ね続ける必要があります。自分の考えに固執しないから尋ねることができるわけで、それ自体幸いなことです。

2024年11月13日 祈祷会メッセージ動画

雅歌4章 メッセージテーマ「 結婚完成 」

2024年11月10日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書7章1〜13節 テーマ「 果たしてそれは聖書か?〜神のことばの本質を見極めよ〜 」

2024年11月10日 メッセージテーマ「果たしてそれは聖書か?~神のことばの本質を見極めよ~」

またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」 マルコ7章9 マルコの福音書7章1-13節 『神の国において人を真に生かすのは神のことばであり、その救いを与えるのはイエスキリストだけである』という真理を教えるために、聖書はゲネサレの地の人々(6:53-56)と、律法(聖書)を教える指導者たちとを対比しています。指導者たちがエルサレムからイエスのもとに来たのは、イエスを調査して誤りがあれば裁判にかけるためです。彼らには独自の聖書のルールがあります。ここでは食前に手を洗う儀式の教えが挙げられています。イエスの弟子たちがそれを守らないことを非難してきました。旧約聖書のレビ記にこの教えがあります(22:4)。しかし、これは祭司に対する規定です。指導者たちは一般の人たちに新たな規定と して定めたのです。それが「昔の人たちの言い伝え」と彼らが呼ぶものです。イエスはそのような彼らを「偽善者」と厳しく非難し、イザヤ書の預言が成就したと言われました。その内容は、 イスラエルの民の行う礼拝は習慣的な儀式に過ぎず、その心は神から徹底的に離れているというものです。当の本人たちは非常に熱心です。しかしどんなに熱心でも、それは人間の教えに基づくものなので無意味です。聖書に何かを加えると、その加えられたものが聖書を規定するようになります。私たちは、何が本質的な教えであり、何が付随的な言い伝えであるかを、しっかりと吟味する必要があります。 イエスは「あなたの父と母を敬え」という神の教えを、指導者たちが無にしていることを指摘されました。「神へのささげもの(コルバン)は、神のものだから、それを他に用いるべきでは ない」という彼らの言い伝えにより、親への扶養を禁止したのです。信仰的に正しい理屈が、むしろ自分の思いを正当化する手段となってしまっています。神に従うつもりでいながら、  人からの評価を求め、聖書のことばを語りながら自己主張したり、人を批判するなら偽善です。 果たしてそれは聖書(神のことば)か?自分の動機の部分を考えてみましょう。それが神のことばであるならば、その人を生かします。もしそうなら、永遠の救いにあずかり、或いは豊かな霊的祝福に与ります。ゲネサレの地の人たちがそうであったようにです。

2024年11月6日 祈祷会メッセージ動画

雅歌3章 テーマ「 結婚直前 整えられる 」

2024年11月3日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの福音書2章1~11節 テーマ「 最初のしるし 」

2024年11月3日 礼拝メッセージ動画

第一コリント1章18〜25節 テーマ「 十字架につけられたキリスト 」

2024年11月3日 メッセージテーマ「十字架につけられたキリスト」

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。 Ⅰコリント 1章18節 Ⅰコリント1章18-25節  イエス・キリストの十字架は、歴史的に実際に起きた出来事として知られています。しかし、それは「処刑された人物」としてです。その後イエスの復活の証人となった弟子たちによって「十字架のことば」すなわち福音が宣べ伝えられていきますが、信じない人々には愚かに聞こえます。「処刑された人物が救い主なんて…」と言うのです。でも、神に造られながら神から離れ、罪の中にある私たち人間にとって、その罪から救われる唯一の道がイエス・キリストの十字架なのです。「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと(Ⅰコリント 15:3)」とあるとおりです。私たちの罪が赦されるためには、全く罪のない人が身代わりにならなければなりませんでした。全く罪のない人とは、神の御子、すなわち神が人となってこの世に来られたお方以外おられません。イエス・キリストは、私たちが赦されるために十字架について下さったのです。なぜ十字架でなければならなかったのでしょうか? それは、神にのろわれた者である罪人の身代わりになるためには、イエスも同じく「神にのろわれた者」となる必要があったからです。「木にかけられた者は神にのろわれた者(申命記 21:22)」とあるとおりです。イエス御自身に罪は全くありません。神の御子であり、神に祝されているお方が、罪人の救いのためにあえて のろわれた者となって下さった。私たちの代わりにのろいをすべて引き受けて下さり、十字架にかかって下さった。これがキリストの十字架なのです。多くの人々が幸せになりたくて、あるいは利益を得るために教えを求めています。その欲求に応えるかのように、様々な教えがこの世には存在します。しかし、罪の赦し、真の救いに至る道はイエス・キリストを信じる以外にありません。イエスは「権力闘争に敗れて処刑された哀れな人物」ではありません。たとえ世の人々に愚かと誤解されようとも、信じる者を滅びから救い出すために、私が受けるべき十字架の罰を代わりに受けて下さったお方。それが神の御子イエス・キリストです。