しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 ローマ5章8節 マルコの福音書7章24-30節 イエスに助けを求めた女性はフェニキア人(カナン人)です。イスラエルとは敵対関係にあった民族であるにもかかわらず、イスラエル人であるイエスに娘を救ってほしいと願うの です。並行記事のマタイ福音書には「私をあわれんでください」と叫び続けて、弟子たちに制止されるほどです。娘のために手を尽くしてきたのでしょう。家族で抱えた苦しみを拭うことができません。彼女はすぐにイエスのことを聞き、ひれ伏して救いを求めたのです。切実な願いに対してイエスは「私が与える救いは、まずイスラエル人に与えなければなりません。その救いを取り上げて、異邦人であるあなたに与えるわけにはいきません」と否定するかのようです。 確かに神の救いの計画は、まずイスラエル人です。そのために彼らは選ばれ、救いの計画を結び、神のことばである律法が委ねられたのです。それに対して、異邦人はイスラエルの民からは除外、救いの契約外、望みも神もない者たちでした(エペソ2:12)。イスラエル人は与えられた特権故に高ぶり、キリストとその救いを拒みました。そのことで異邦人に救いが及ぶようになったのです。すべて神のご計画です。ただ異邦人の救いの時が、この時まだ来ていなかったのです。まず私たちが知らなければならないことは、そもそも救いを受ける権利はないということです。イスラエル人も異邦人も神に対して故意に罪を犯したのですから。彼女は、自分が救われようがない存在であること、神に何かを要求できる立場にないことを承知で、救いのおこぼれだけでも頂きたいと、あわれみを乞うたのです。そうです。何の権利もない私たちはただ神のご好意にすがるしかないのです。そのような人をイエスはお救いになります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき...」(上記聖句)つまり、罪ゆえに救いを受ける権利を持っていないとき、キリストは、その罪をご自分が担われて身代わりの死を遂げられたのです。 これを恵みと言います。受けるに値しない人が受けることができるのを恵みと言い、あわれみと表裏一体です。神はあなたを救おうとされています。