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2月, 2025の投稿を表示しています

2025年2月26日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書8章 テーマ「 マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」

2025年2月23日 礼拝メッセージ動画

ペテロの手紙第一 4章7〜11節 テーマ「 主から任せられた奉仕 」

2025年2月23日 メッセージテーマ「主から任せられた奉仕」

それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。 Iペテロ4:10 ペテロの手紙第一4章7-11節 この手紙の語り手であるペテロは、奉仕の意味合いを的確かつ詳細に教えています。というのも、教える前提に「万物の終わりが近づきました」というものがあるからです。当時、ローマの大火という事件でクリスチャンへの大迫害が起こり始めた時でした。めいめいのイメージで奉仕をしている場合ではないので、その本質を汲み取った確かな奉仕をすることが求められたのです。❶奉仕の大前提は神との関係です。「祈りのために(神とのかかわりのために)」(7)とはそのことです。救われた人はキリストとの交わりに入れられています(Iコリント1:9)。そのまま(自然のまま)では神との関係を保つことはできず、自分のしたいことを選ぶでしょう。そうならないために、聖書のことばと、それを教えてくださる聖霊の働き、そしてそれらを共有する教会の存在があるのです。❷神との関係の次に、互いに愛し合うことです。これは赦し合うと言ったほうが良いでしょう。終わりの日の切迫した状況の中で、互いの違いや失敗を赦さないことがあれば、サタンに屈したことになります。私たちにとって終わりの日は、希望の日です。それを励ましとするなら赦すことができます。❸互いに愛し合うことの次に、もてなし合うことです。愛し合うことの実践がこれです。「互いに愛し合う」ことは、ただのスローガンでも理想でもありません。実践すべき事柄です。終わりの日の日常は精神的にも肉体的にも余裕がなくなるでしょう。弱い人にはなおさら、もてなさなくてはなりません。不平を言わずにです。❹愛の実践としてのもてなしを、教会において秩序を持って適切に行うことが仕え合うことです。そのために神はひとりひとりの信者に賜物を与えておられます。自分のための賜物は一つもありません。教会においてすべて他者の益のためにあります。またそれは、神が管理者として担当を任せてくださったものです。手伝いではありません。自分の都合に関係なく、神から任せられたものを行うのです。神は教会に、語る賜物と奉仕の賜物とを与えています。前者は神のことばを解き明かす人、それを詳しく教える人、教えられたものを実践できるように勧める人など です。後者は語る以外の諸々の必要です...

2025年2月19日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書7章1~25節 テーマ「 インマヌエルの預言 」

2025年2月16日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの黙示録20章7〜10節 テーマ「 悪魔の最後 」

2025年2月16日 宣教大会礼拝メッセージ動画

マタイの福音書13章38節 ヨハネの福音書4章35節 テーマ「 主の畑は全世界 」

2025年2月16日 メッセージテーマ「主の畑は全世界」

畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。 マタイ13:38 マタイの福音書13章38節 (テモテへの手紙第二より) 伝道者テモテが「みことばを宣べ伝えなさい」(4:2)とパウロから命じられたのは、一時的にその働きができなくなったからです(1:4,6,7)。ローマ政府からの弾圧(3:6)と、イエスから離れていく内側の問題と(3:1-9,4:3,4)困難に満ちています。しかしテモテが宣教できなくな った原因は彼自身の中にあります。それは彼が「学んで確信したところにとどまって」(3:14)い ることができなくなったことが最大の原因です。そこでパウロは、聖書が「キリスト・イエスに対 する信仰によって救いを受けさせる」(3:15)ものであることを教えました。コロサイ 1 章4,5節 によると、イエスに対する信仰は「天に蓄えられている望みに基づくもの」であると教えていま す。天の望みは私たちに与えられた救いにおいて無くてならないものです。それは「からだが 贖われる」(ローマ8:23)ことであり、「栄光に輝くからだ」(ピリピ 3:21)に変えられることであ り、「イエスに似た者になる」(Iヨハネ3:2)ことです。罪も死もなく、永遠のお方、完全な愛を お持ちのイエスと同じ姿になるのです。イエスが神の御子であり、私を罪から救った救い主で あると信じた私たちは、自分自身がイエスに似ることを信じなければなりません。救いはいた だいているけれど、その望みを失ったために、みことばを宣べ伝えることができなくなるのです。 それは地上的な救いと言えます。「イエスを信じたら、喜びの人生が用意されていて、良いこと がある」確かにそうかもしれないですが、死に直面するほどの困難に遭う人にどのように宣教 すればよいのでしょう?私たちは天上的な救いを宣べ伝えます。イエスが死に打ち勝たれたよ うに、私たちも罪と死に打ち勝ち、「いつまでも主とともにいる」(Iテサロニケ 4:17)永遠の祝 福を宣べ伝えるのです。テモテも私たちも、学んで確信したところにとどまるべき教えはそこにあります。今は終わりの日の困難な時代に突 入しています。真理(イエス)を知ることができず(3:7)、真理(イエス)に逆らい(3:8)、真理(イエス)から耳を背ける(4:4)信仰者たちが出てくる困難が待ち受けています。だから...

2025年2月12日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書6章 テーマ「 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主 」

2025年2月9日 礼拝メッセージ動画

エレミヤ書29章8〜14節 テーマ「 平安を与える計画 」

2025年2月9日 メッセージテーマ「平安を与える計画」

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を 与えるためのものだ。 エレミヤ29:11 エレミヤ書29章8-14節  エレミヤは紀元前627年にイスラエル(南ユダ王国)で預言の活動を開始しましたが、この間にエルサレムが新バビロニア帝国に侵略され、バビロン捕囚が始まりました。そのような中、エレミヤは預言すなわち神のみことばを捕囚の民に語りました。 まず語ったのは「偽りの預言にごまかされないように」という戒めです。この時代には偽預言者たちがイスラエルにたくさんいました。ハナンヤという偽預言者は「あと2年で、捕囚の民はエルサレムに戻ることができる」という預言を行っていました(エレミヤ 28:11)。神は そのような偽の預言や偽預言者に騙されることのないよう警告しつつ、真の預言を語りました。 「バビロンに七十年が満ちるころ、…あなたがたをこの場所に帰らせる(エレミヤ 29:10)」、この預言を聞いた捕囚の民の心情は複雑だったことでしょう。彼らがこの預言を聞いたのは「あと 2 年でエルサレムに帰れる」という偽預言が外れた後のことです。希望が絶望に変わるのを体験した彼らは、エレミヤが語る預言を聞く気になれなかったかもしれません。しかも 「あと70年後」、正直生きているかわからない(おそらく生きていない)…。 ここで問われるのが信仰、すなわち神をどのように認識しているかです。エレミヤは神の 預言を語り続けました。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに 将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」神の約束は必ず成就します。70年後に必ずエルサレムに帰還できます(実際、成就しました)。そして、たとえ 70 年後に生き残って いなくても、神の計画は平安、将来、そして希望を与えるものです。エレミヤ29:4-7を見ると、主はイスラエルの民が捕囚から解放されるまで70年の年月があることを見越して、バビロンに定住し、生活の基盤を整えるよう命じておられます。そして「その町の平安を祈りなさい。 その町の平安によってあなたがたは平安を得ることになる」とも言われました(エレミヤ 29:7)。つまり、捕囚の身であっても平安を得られる 説教 エ...

2025年2月5日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書5章 テーマ「 主の愛の歌 」

2025年2月2日 午後礼拝メッセージ動画

黙示録20章1~6節 テーマ「 千年(メシア)王国 」

2025年2月2日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書8章27〜30節 メッセージテーマ「 イエスをだれと言うのか 」

2025年2月2日 メッセージテーマ「イエスをだれだと言うか」

するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」 マルコ8章29節 マルコの福音書8章27-30節 No40 「あなたはキリストです」との弟子の初告白は、福音書の中でも重要な場面です。「イエス」 は名前で、「ヤハウェ(神)は救う」という意味です。「キリスト」は苗字ではなく、「油注がれた者 (メシア)」というタイトルです。旧約時代に、王など神によって特別な任務に任命される時に 油を注ぐ儀式が行われたことから来ています。『「神は救う」という名の方が、人を罪から救う ために、救い主として父なる神から任命された』それがイエス・キリストです。極めて重要な 告白をしたことになります。弟子たちがイエスとともに過ごして従っているのは、彼らが訓練 されて宣教するためです(マルコ 3:13-15)。彼らが宣べ伝えるものはイエスキリストそのもの であり、十字架と復活です。イエスがこの告白のあとに受難の告知(マルコ 8:31)をされて いることは意義深いものがあります。人々はイエスを再来のバプテスマのヨハネ、預言者 エリヤ、或いは新たな預言者の一人と見ました。つまり偉人です。人々は尊敬と恐れを抱いて いましたが、 あくまで人であるイエスです。しかし弟子たちは「神の子キリストです(マタイ 16:16)」と告白したのです。「さすがイエスの弟子」と寝食をともにしてイエスに従っているだけ あって本質を見抜いている...わけではありません。イエスが神の子であるとわかるのは、よく 学び、有力な文献に裏付けられたものだからではありません。神がその人に明らかにして くださらなければ決してわからないことなのです(マタイ 16:17)。聖書をよく読み、礼拝説教を 熱心に聞いても、神が明らかにしてくださらない限り、イエスが神の子と知ることはできないの です。しかしもし、このことを神から明らかにされるならば、人を罪から救う方が捨てられ、 殺されることを信じて受け入れることができるでしょう。 イエスが与える救いは、罪からの救いです。その救いは罪が赦され、平安をもって過ごす ことができるだけではありません。イエスが罪と死に勝利されたように、イエスを信じる者も、 そのキリストに似た者として復活のいのちと、 事実いつまでもイエ...