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2025年3月30日 礼拝メッセージ動画

エレミヤ書31章1〜6節 テーマ「永遠の愛をもって」 動画は こちら

2025年3月30日 メッセージテーマ「永遠の愛をもって」

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」 エレミヤ31:3より エレミヤ書31章1-6節 エレミヤが預言者として活動していた時代(紀元前7世紀)のイスラエルは周 辺国家の攻撃に遭い、北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに侵略 されました。多くの民が殺され、生き残った民は捕囚となりましたが、神はエ レミヤを通してイスラエルの民に語りかけました。 まず、神は民に歩み寄られます。「そのとき…わたしはイスラエルのすべて の部族の神となり…(1節)」とありますが、以前から神はイスラエルの神で す。これは神から離れてしまったイスラエルの民に、神御自身が近寄っておら れるのです。 次に神は、民に恵みを与えることを約束しておられます。「剣を免れて生き 残った民は荒野で恵みを見出す(2節)」とは捕囚からの解放、イスラエルの 回復の預言です。イスラエルの苦難は神から離れた結果ですが、それでも神は 、御自身の民が苦しんでいるのを放っておかず、悔い改めの機会、解放への道 を用意して下さるのです。 そして神は、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した(3節)」と言 われました。私たち人間の愛は不完全なものです。「永遠の愛を誓う」と言っ ても、そうできない弱さがあります。その時の状況によって愛が揺れ動いたり 、なくなってしまうことすらあります。しかし神の愛は永遠です。すなわち「 どのようなことがあっても、決して変わることのない愛」です。 聖書の中には人間の罪が数多く示されています。アダムとエバの堕罪をはじ め、その息子たちの間で起きた殺人、ノアの洪水前の人々の悪の増大、洪水後 のバベルの塔、モーセの出エジプト後の金の子牛(偶像)礼拝…。いずれもそ の根底には「自分が神になる」あるいは「神以外のものに支配される」という 罪の問題があります。それにもかかわらず、神の愛は途切れることがありませ んでした。なぜなら、神の愛は永遠だからです。たとえどのようなことがあっ ても、神の愛が絶えることは決してありません。 もし神の愛が永遠でなかったなら、アダムが罪を犯した時点でその愛は絶え ていたでしょう。アダムとエバは神に 打たれ、人類の歴史はそこで終わって いたはずです。でも神は、そうなさら なかったばかりか、罪を赦す道、すな わち救...

2025年3月26日 礼拝メッセージ動画

イザヤ書12章 テーマ「救いの泉から水を汲む」 動画は こちら

2025年3月23日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書 9章1〜8節 テーマ「栄光のしもべ」 動画は こちら

2025年3月23日 メッセージテーマ「栄光のしもべ」

まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。 マルコ9:1 マルコの福音書9章1-8節 No44 上記のイエスの発言はインパクトの強いことばです。というのも、イエスが再臨されて神の国が完成するときのことを言っているからです。それを死なずに見ることのできる人たちがいるとのことですが、これを聞いていた人たちは皆死んでいます。実は、イエスは六日後の出来事に最大限の関心を抱かせるために、あえて言われたのです。その出来事とはイエスの御姿が変わるというものです。その御姿はイエスが再臨されたときと同じ姿です。つまりイエスはそこで神の国の完成した型をお見せになったのです。今の弟子たちは、イエスの受難を受け止めきれずにいます。尚且つ「自分の十字架を負って」従って来ることを命じられ、相当の負担を感じていたに違いありません。苦しみの道はイエスとともに通って行かなければならないのですが、後に必ず報われることを変貌の出来事で教えようとされたのです。後にペテロは、この出来事を思い出すこととなります。さて、聖書が伝えているイエスの御姿の変化は、この世では表現しきれない輝きです。見た印象としては衣の白さと顔の太陽のような輝きです(マタイ 17:2)。これは単に服や顔が変わったのではなく、根本的な変化です。これまで弟子たちが見ていたのは人としてのイエスですが、ここで見たのは神としての姿です。彼らは神の栄光としての輝きを見たのです(黙示録21:23)。またイエスは旧約時代の律法の代表者であるモーセと、預言者の代表者であるエリヤと語り合いました。語り合った内容は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ 9:31)です。神の救いのご計画の中心的な事柄を、旧約・新約全体を通して語り合っていたことになります。ユダヤ指導者たちは、モーセ、エリヤを偉大な存在として認めていましたが、その二人が神として認めるイエスに殺意を抱くとはどういうことでしょうか。そこに天からの父なる神の御声が「わたしの愛する子...」とかかりました。父こそイエスを御子と認めておられます。そこはまさに御国の型です。ペテロは今混乱していますが、後に悟ります(IIペテロ 1:16-19)。苦難のキリストと栄光のキリストの...

2025年3月19日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書11章 テーマ「メシアによる平和と民の帰還」 動画は こちら

2025年3月16日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書8章34-38節 テーマ「十字架(しもべ)の主 ⑵」 https://youtu.be/_7IcN07_YyM?si=XfrCzHklelPAhFwD

2025年3月16日 メッセージテーマ「十字架(しもべ)の主 ⑵」

だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 マルコ8:34 マルコの福音書8章34-38節 №43 イエスは、キリストの職務内容(受難)を理解できなかったペテロはじめ弟 子たちと、わざわざ群衆を呼び寄せて、「だれでもわたしに従って来たければ …」と真の弟子となる条件を教えました。第一に「自分を捨てる」ことです。 自己中心的な自分の歩みを捨てることを教えています。私たちには自分の人生 があります。家族、仕事、学校、交友、趣味、所有物…それらを自分の意志や 計画で支配することを捨てるのです。つまり自分の人生をイエスに支配してい ただくのです。第二に、「自分の十字架を負う」ことです。自己中心の自分に 死を宣告するのです。クロスする十字架の縦木は処刑場に立てられています。 死刑囚は横木を抱えて街中を見せしめとして歩いて目的地に向かうのです。そ れほどに自己中心はやっかいで、ひどいものなのです。ローマ社会では、市民 権を持つ者にこの刑を課すことを許しませんでした。壮絶だからです。しかし 、イエスを信じた御国の民は全く逆です。「日々十字架を負」うのです(ルカ 9:23)。「日々」というのは、イエスに従うには一瞬一瞬の決断が必要で、日 々の連続なのです。「自分は他の人に勝っている、劣っている」と自己中心の 自分も日々の連続です。イエスをいさめたペテロは、いわば自己中心的な善意 を見せたのです。自己中心の問題は、優越感や劣等感よりも、イエスを自分か ら遠くに追いやることです。この罪のためにイエスは十字架で死なれるのに、 そんなことが起こるはずもないなどと言うものなら、それはサタン的です。 自分のいのちを救うならそれを失い、イエスのためにいのちを失う者はそれ を救う(35)との教えは、イエスに従うか、自分を選ぶか、道は二つしかない ということです。自分を選ぶことは、自己中心の道を進むことです。そこに救 いはありません。しかし、イエスのためにいのちを失う者は、一度イエスとと もに罪に死ぬのですが、それはいのちを救うことになります。それはイエスの 受難には「三日後によみがえらなければならない」という必然があるからです 。復活のイエスは栄光と力を帯びて聖 なる御使いたちとともに、地上に戻っ て来られるのです。ですから、イエス のご意...

2025年3月12日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書10章 テーマ「 神の怒りの杖 」

2025年3月9日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書8章31〜33節 テーマ「 十字架(しもべ)の主 」

2025年3月9日 メッセージテーマ「十字架(しもべ)の主 (1)」

それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始めら れた。 マルコ8:31 マルコの福音書8章31-33節 No42  イエスがキリストであることを明らかにすることが、マルコの福音書前半の中心的な内容でした。それが一度明らかになると、次にどのようにして、キリストが職務を全うしていくのかということが明らかにされていきます。イエスはご自分の職務の重要な「受難」について話されました。「多くの苦しみ」とは、イエスがエルサレムで不当に逮捕され、いわゆる弾劾裁判を受けることを指します。その主導者が長老たち、祭司長たち、律法学者たちと呼ばれるユダヤの最高議会のメンバーたちです。イエスに罪がないので、その裁判は無意味です。ところが彼らはイエスをキリストと認めていないので、イエスが大祭司、預言者、王であることを明らかにすることこそ、神への冒涜罪だと主張したのです。彼らこそイエスがキリストであることを教えなければならない立場にいる人たちです。彼らはイエスを捨てたのです。「殺され」とは、単なる肉体の死のことではなく、人々の罪を赦すために、神の怒りを一身に引き受けられた贖いの死のことです。イエスはこれまでに、受難について触れなかったわけではなく、暗示的には教えておられました(マルコ2:20)。また、旧約聖書においても、キリストの受難の預言は数多くあります(詩篇22:1、18、69:21、イザヤ53章等)。しかし、ユダヤ指導者はじめ、弟子たちにも、その認識はありません。聖霊が働かれていないからです。聖書を正しく捉えるには、認識していく順序が重要です。まず初めにイエスがキリストであることを信じることです。その次にキリストがどのような働きをされたのか(十字架、復活)を受け止めることができます。ペテロは、イエスが示したキリストの働きを認識できなかったどころか、「そんなことがあなたに起こるはずがありません」(マタイ16:22)といさめ始めたのです。イエスはこのペテロを「下がれ。サタン」と痛烈に叱責されました。それはペテロが「神のことを思わないで、人のことを思っている」からです。「神のこと」とは神の事柄のことで、それは神がお立てになったご計画のことです。神の国を造られるべく、その民となる人...

2025年3月5日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書9章1〜7節 テーマ「 異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける 」

2025年3月2日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの黙示録20章11〜15節 テーマ「 白い御座のさばき 」

2025年3月2日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書8章27〜30節 テーマ「 世の中のただ中での信仰告白 」

2025年3月2日 メッセージテーマ「世のただ中での信仰告白」

さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった...。 マルコ8:27 マルコの福音書8章27-30節 No41 「イエス」は「神は救う」という意味の名前です。「キリスト」は「油注がれた者」という職名(タ イトル)です。旧約において神は、王、大祭司、預言者にのみ、任職の油を注ぐことを定められ ました。実はイエスは、神と人との間を執り成す大祭司です。この職は罪の赦しのためのいけ にえをささげる役がありました。イエスはご自身がそのいけにえとなられた唯一の大祭司です。 また、イエスは真の神のことばを取り次ぐ預言者であり、ユダヤ人の王です。いや最終的に王 の王、主の主として神の国を治められます。それがキリストと呼ばれる所以です。 現在マルコの福音書を順に説教し、8章30節まで来ました。ここまでが前半です。その主題 は「イエスとはだれか?」です。数々の奇蹟をイエスが行われたのは、その問いの答えの一つ です。病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせ、パンを増やされました。これはいのち の部分、霊的部分、自然の部分、物質的部分と、すべての領域において神としての権威と力を 顕示されたのです。それはキリストであることの証拠です。そして、この方でなければ、人を罪 から救うことはできません。「あなたはわたしをだれだと言いますか」との問いかけに対して、 「キリストです」と告白することは、この方が神であること、その神としての権威と力をお持ちで あることを信じることなのです。 この方を信じるとは、イエス・キリストを自分の人生の主とすることです。弟子たちがすぐに 従ったのは、イエスを主としたからです(マルコ 1:16-20)。人生の中でだれを主とするかとい うことは重要なことです。「いや、だれも主になどしていない」と言いたいところですが、私たち は国家に従わなければなりませんね(たとえ正しいと思えなくても)。イエスの弟子たちもそう でした。彼らが信仰告白した「ピリポ・カイサリア」は「カイサル」の町です。カイサルとはローマ 皇帝の称号です。この国に従えと、神として祀られる皇帝の力を顕示しているのがこの町です。 イエスはあえて、その場所で誰を主とするの かを問われたのです。「イエスはキリスト」との 告白に生きることは戦いです。も...