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2025年6月29日 メッセージテーマ「いつくしみ深き」

イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。 マルコ10:21 マルコの福音書10章17-22節 No53 「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」とは、「神の国に入るには?」 (10:24)、「救われるには?」と同じです。熱心に尋ねる富める青年は「何をしたら?」と言いま した。これは行いによって神の国に入ることができるという理解です。イエスは、あなたの知っ ている戒め(律法)を守りなさいとお答えになるのですが、彼は小さいころからすべてを守って いるとイエスに返しました。この理解は、救いを得るのに重要なのが「行う自分」であるというこ とです。彼だけの理解ではありません。自分が頑張れば報われるというメッセージを、世界の ほとんどの人たちが持っているのではないでしょうか。 イエスは彼に対して、「あなたが理解している戒めを守ってみなさい」とあえて告げます。彼 は、「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない...」の戒めを、文字通り、その 行為をしない!だから守っているとの理解です。でも、神の国に入れる確信は得られません。 一方イエスは、「怒る者」も殺人と同じですと教えます(マタイ5:21,22)。しかも戒めの本質は、 一つ一つの「~してはならない」が、「隣人を愛しなさい」に尽きることを教えています(ローマ1 3:9)。こうなると、「守っているとはと言い難い」とだれもが自問することになるでしょう。 イエスのねらいは、戒めを全く守ることができていないことを彼に自覚させることにありまし た。そのために、一つのチャレンジを与えます。自分の財産をみな売り払って施しをしなさいと。 彼はできませんでした。多くの財産を持っていたからというよりも、「行う自分」が大事だった わけですから、隣人への愛がなかったということでできなかったのです。 そんな彼をいつくしんで見つめられたのがイエスです。それはイエスが神の国に入る方法を 知っていたからです。それを実践しつつあるイ エスが向かっている先はエルサレムです。十 字架にかかって殺されに行くのです。彼のた めにです。...

2025年6月29日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書10章17〜22節 テーマ「いつくしみ深き」 動画は こちら

2025年6月25日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書36,37章 テーマ「神への誠実」 動画は こちら

2025年6月22日 礼拝メッセージ動画

マルコの福音書10章13~16節 テーマ「子どものように神の国を受け入れるとは」 動画は こちら

2025年6月22日 メッセージテーマ「子どものように神の国を受け入れるとは」

まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。 マルコ10:15 マルコの福音書10章13-16節  再び「子ども」が登場します。しかも、神の国というイエスにとって最も大事なことを教えるにあたって、欠かすことのできない存在として教えています。前章では、子どもたちを受け入れなさいと教えました(9:36,37)。(ユダヤ)社会的に認められていない存在が子どもです。なぜなら、小さな者たちは自らの力で生きることができないからです。必ず誰かに依存しなければ存在し得ないのです。罪の配下にある人間こそ、神に依存しなければ生きることができない存在です。人は堕落した結果、本来愛し合うべきなのに、妻は夫を所有したくなり、しかし夫が妻を支配するという一致し得ない関係になりました。罪によって人間だけではなく、大地(被造物)がのろわれ、その結果人は苦しんで糧を得るという労働の苦しみを負いました。その苦しみの果てに死を迎えるのです。これが罪の配下にある人間の姿です(創世記 3:16-19)。そのような人間を罪から救うために来られたのが救い主イエス・キリストです。イエスの十字架の死は、信じる者を罪から解放し、イエスの復活は、罪と死に勝利した証しであり、信じる者自身も罪と死に勝利するのです。イエスが子どもを受け入れるのは、子どもに見る罪の配下にある人、神なしでは生きることができない人を受け入れるということです。弟子たちが、その子どもを叱ったということは、神の国の本質に水をさすようなことなのです。ですからイエスは、弟子たちに憤って神の国の奥義を教えられたのです。 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)山上の説教の冒頭に出て来る教えです。神なしでは生きられないと自覚している人は幸いで あることを、イエスは宣教の初期から教えておられました。弟子たちはこの教えを受けていました。「子ども」を例にした神の国についての教えにおいても、おそらく繰り返し受けていたと考えられます。弟子たちを見てわかるように、神の国の奥義は一度や二度で悟ることができるわけではありません。イエスは彼らの鈍さを承知しておられ、愛と忍耐をもって繰り返し教えるのです。私たちこそ、神の国の奥義を、聖書を通して、何度も教えられなければ...

2025年6月18日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書32章 テーマ「一人の王が義によって治める王国」 動画は こちら

2025年6月15日 聖書のおはなしのつどい 午後の部メッセージ動画

第1ペテロの手紙1章3〜5節 テーマ「生ける望み」 動画は こちら

2025年6月15日 聖書のおはなしの集い メッセージ動画

ローマ人への手紙4章17〜25節 テーマ「望み」 動画は こちら

2025年6月15日 メッセージテーマ「望み」

彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。 ローマ4:18 ローマ人への手紙4章17-25節 「ある事の実現を望み願うこと、将来に対する期待」これが一般的な「望み」の意味です。こ れに対して聖書の「望み」の意味合いは「何かを待っているときの緊張状態」が元の意味で、 「待つ或いは待ち望む」それが望みです。これらのことから、状況に望みを置くのが一般的で、 人物(人格的なもの)に望みを置くのが聖書的理解です。「私は主(神)を待ち望む...私はこの 方に望みを置く」(イザヤ 8:17)というようなフレーズが聖書には沢山記されています。状況は 良くも悪くも変わります。そのような対象について待ち望むというのは不自然かもしれません。 アブラハムという人は、状況が良くなる確証がないまま、神を待ち望んだ人々のひとりです。 彼が80歳のころ、彼から生まれ出る者から無数の星のように、子孫が増えるとの約束を、神 から頂きました。しかし、99歳になっても、その約束は果たされません。ですから、彼は自分な りに考え、可能性を見出そうとしました。代理母も実行しました(創世記15-17章)。 すべて状況に望みを置いても、幸せになることはありません。罪の配下にある望みだからで す(ローマ3:9)。人は自分の意志で罪を犯しますが、主導権は罪そのものにあります。人を愛 することができず、自己中心的言動は、道徳的な努力をしても直りません。人が必ず迎える 「死」は、罪が主導権を持つ決定的なことです。聖書は死を単なる寿命とはとらえず、罪の報い と主張します(ローマ6:23)。 人は望みがなければ生きていけません。アブラハムは神に望みを置いたことで、代理母で も、他の手段によってでもなく、夫100歳、妻90歳のからだから、新しいいのちを授かりました。 「彼(アブラハム)は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。」(ヘ ブル11:19)と聖書にあるように、神には復活の力があることを信じたのです。そして、このアブ ラハムに起こったことは、真の望みを彼が選ぶ ためであり、今の時代の私たちが同じ祝福に あずかるための神の計画だったのです。彼が 復活の力を信じたように、私たちも死者の中 からよみがえったイエスを信じ...

2025年6月11日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書31章 テーマ「神に帰れ」 動画は こちら

2025年6月8日 礼拝メッセージ原稿

本日の礼拝は機材の不具合で録画ができなかったため、 メッセージ原稿を掲載いたします。 マルコの福音書10章1~12節 テーマ「聖書の教えと頑なな心」 原稿は こちら

2025年6月8日 メッセージテーマ「聖書の教えと頑なな心」

ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。 マルコ10:8-9 マルコの福音書10章1-12節 №51 「夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」という質問がイエスに投げかけられました。当時、律法の解釈(申命記24:1)から、不貞以外は離婚理由にならないとする立場と、どのようなことでも離婚理由になるという立場がありました。いずれも夫が妻を離縁する場合で、女性はないがしろにされていました。ユダヤ特有の文化、習慣から女性の人権が認められていないところから来ています。当時のユダヤ人は、弟子たちを含めて、夫にのみ離婚の権利があると思っていました。イエスは離婚のことが律法に書かれた理由を、「あなたがたの心が頑な」だからと答えられました。本来の結婚の制度に従うことをしないで、女性が軽んじられたために、女性を守るための律法でもあったのです。 イエスはご自身の結婚観を、「創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。」と教え始められました。このことばから、結婚は神の救いのご計画の中にあるものということがわかります。神は男と女を一体の存在として造られました。はじめに男、次に女を男のあばら骨をもとに、助け手として造られました。男だけでは人として成立しない、不十分だということです。男と女とがいて本来の人となるのです。この神の計画の視点に立って結婚をとらえると、本来一体だった者たちが、その本来の姿を取り戻すために結び合わされるのです。これが聖書の結婚観です。無関係な二人が偶然に出会って結ばれるということではないのです。 本来持っていた一体を回復するために、父と母を離れます。たとい親と同居していたとしても、精神的に強い意志をもって離れることが必要です。親と離れることは、イエスを信じ、イエスの結婚観をもって可能となります。そうして二人は結ばれて(離れられない状況)、一体となります。イエスはこの結婚観から離婚について踏み込まれます。つまり、この結婚の主旨から離婚という発想はあり得ないということです。質問者は離婚ありきです。立っている位置が違います。 私たちはなぜ、こんなにも結婚において苦労するのでしょう?それは単純に、神の結婚制度から外れているからです。ではなぜ、神の結婚制度...

2025年6月4日 祈祷会メッセージ動画

イザヤ書30章 テーマ「あなたを教える方」 動画は こちら

2025年6月1日 メッセージテーマ「心を頑なにするメッセージ」

...塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。 マルコ9:50 マルコの福音書9章48-50節 No50  弟子たちが信仰告白(8:29)をして以降、イエスはこれまで語らなかった神の救いの計画を弟子たちに詳細に教え始められました。それはイエスのいのちを犠牲にして、罪人を救うというものです。このイエスを信じた者は罪が赦されるだけではなく、神の国に入ることが約束されました。 マルコ9章48節の「ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が...」は、イザヤ書からの引用聖句で す。これを理解するためにはイザヤ書全体の預言の主題を知らなければなりません。一言で 言うならば、それは「心を頑なにするメッセージ」です。メシア誕生の預言、その誕生理由であ る人間の罪に対する厳しい指摘、そして人々を最も頑なにする救い主の受難のメッセージ... 救う方が殺されるなどということを語れば語るほど、人々は心を頑なにしたのです。しかし、そ れを語ることで、罪から救われたらどうなるのか?ということも語ることができるのです。イザ ヤ書にはそこもしっかりと預言されています。例えば、35章からピックアップすると、1悲しみ と嘆きがない喜びと楽しみのみの状態(10)、2からだが完全に贖われる状態(5,6)、3真の 平和(9)、4人間だけではなく自然も贖われる(1,6)...神の救いは全宇宙的な救いです。 マルコ9章49節の「人はみな、火によって塩気をつけられます」は、レビ記2章13節の引用 です。塩は神と民との不変の契約を象徴しています。救われた人は神との契約関係にありま す。ですから、イエスの十字架と復活という心を頑なにするメッセージに反する言動は契約違 反となるのです。無に等しいひとりを受け入れず、つまずかせることも、誰が一番偉いかとの 議論も契約違反です。 これらの教えの最後にイエスは、「塩に塩気がなくなったら...何によってそれに味を付ける でしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち」なさい(9:50)と言われました。イエ ス・キリストを宣べ伝える人たちが、大事な塩 気の部分である十字架と復活の真意を抜き 取った状態で働くなら、教会も宣教も無意味 です。ですから「火」によって塩気を保つので す...